蟹のつぶやき kanikani

童画の世界2008年12月10日 07:33

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上野の東京国立博物館と芸大の間に、国立国会図書館の国際子ども図書館がある。その3階で、童画の世界――絵雑誌とその画家たち」という展示会が開かれている。「童画」という言葉は、画家の武井武雄が、それまでの文章に添えられた挿絵から、独立した「絵画」の分野として名づけた、児童画の独立宣言のような造語のようだ。

「日本における児童向けの雑誌は、明治後期に誕生し、その中から生まれた絵を中心とする絵雑誌は第一次世界大戦時の好景気と大正デモクラシーの自由な雰囲気に支えられ、花開きました」と、イベントの説明の冒頭にある。「しかし、昭和期に入り、日中戦争、第二次世界大戦による物資不足もあいまって、次第に絵雑誌は統合され、衰退していきます。」と。

HP によると――今回の展示会では、「コドモノクニ」、「子供之友」、「コドモアサヒ」などの昭和前期までの絵雑誌と、そこで活躍した、竹久夢二、岡本帰一、武井武雄、初山滋、村山知義などの代表的な童画家たちの作品を紹介しながら、絵雑誌の誕生から衰退までの流れをたどります。=写真は、「コドモノクニ」10巻6号(昭和6年5月)「ボクノオ室」岡本帰一

興味深いのは、児童雑誌の表現の制約としての雑誌の判のサイズの変遷。初めは大人も子どもも区別ないのでA5版で文字も通常の細かさで漢字交じり。やがてサイズが一回り大きくなりB5版、横長に展開する。文字フォントも大きくなり、全部カタカナに。いまなら当然、ひらがなであるのだろうが、当時は幼児教育から小学校までカタカナが導入部にあった。地の文は原則として縦書きだから、問題ないのだが、見出しやカットなどの横書きは、右から左であったり、左から右であったり、戸惑うことが多い。

「コドモノクニ」や「子供之友」から「コドモアサヒ」となってくると、大阪朝日新聞の子どもたちを対象にした仕事が始まる。なかなか良い仕事をしている。戦前の児童図書の息の根を止めたのは、用紙統制という総動員体制の流れだったことが分かる。

この図書館は、児童書を専門に扱う図書館サービスを行う国立国会図書館の支部図書館で、2000年に日本初の児童書専門の国立図書館として設立されたのだそうだ。明治39年に久留正道により設計された。ルネサンス様式を取り入れた明治期洋風建築の代表作のひとつで、戦後も国会図書館の支部として使われてきたが、子ども図書館となるに当たって安藤忠雄建築研究所と日建設計により旧建築を生かした形の中で設計、鴻池組により改修が行わた。2002年に完成、全面開館、古い建築をスケスケのアクリルで囲い込んだような改修ぶりも話題を呼んだ。「内外の児童書や関連の研究書などを広範に収集・提供・蓄積し、電子的な情報発信を行うとともに、子どもと本の出会いの場を提供し、子どもの読書に関わる活動を支援するナショナルセンター」だが、建築探偵にも必見の建物。

因みに展示会の開かれている3階の会場は、かつての「閲覧室」、高い天井や華麗な室内の装飾も楽しめる。無料。09年2月15日まで。

蛇足だが、http://www.tcl.or.jp/[東京子ども図書館]という別の財団法人組織も中野区にある。「石井桃子のかつら文庫」など4つの家庭文庫が母体となった法人組織の私立図書館だそうだ。

3億円2008年12月10日 17:23

もう40年前になるのだな、と感慨ひとしおである。あの「3億円事件」。 1968年(昭和43年)12月10日午前10時前に、その事件は起きた。いまさら「3億円事件」の説明をするまでもないだろう。その日、私は入社1年目、四国のある県都の警察本部の記者クラブで、この事件の一報を聞いた。当時、大事件が発生したといっても、NHKを含めてテレビの速報体制というのは、まだまだであった。 それでも正午前には、事件のあらかた、輪郭が浮かび上がってきた。 白バイの警官を装い、現金輸送車を止め、爆弾が仕掛けられている恐れがある、といって発煙弾で煙を発生させ、輸送車から乗員、警備員を離れさせて、輸送車に乗込んで逃げ去った。輸送車には、東芝府中工場の行員らのボーナスがジュラルミンの箱に収められ、概ね3億円。2億9430万7500円が載っていた。 男は、犯行現場から逃走用の車を置いていた第2現場に輸送車を乗り捨て、非常線をあっという間にかいくぐり、逃走した。 「なんと3億円」。いまでもジャンボ宝くじの当籤額だが、当時のまずまずと思われた初任給本給がざっと3万円。それ以前の高額盗犯の被害額が3100万円であったことからいっても、今考える額の何十倍もの値打ちを感じたものだ。 それを、ダレも傷つけることなく、演技プラン通りに盗みきった。「まんまと」という表現は、この犯行のためにあるようなものだと、世間一般、この犯人に喝采を送ったというのが本音だろう。 だれもが傷つかず、輸送した銀行も、盗まれた金が保険で戻ってくる、現に翌日には東芝府中の行員さんたちに、たっぷりであったか増減なくボーナスが支払われた。 「直にも犯人は挙がる」。当時、世間の会話は3億円事件をおいては語れないほど挨拶がわりだったから、取材して廻るお巡りさんたちのダレもが、自信を持って、早期検挙を語っていた。「これだけ物証が残っているんだから……」 結果は、歴史が語っている。 それにしても、あのモンタージュ写真。 「3億円事件」と「グリコ・森永」のキツネ目の男の似顔絵くらい、人々の網膜に刻み込まれた「顔」はなかったかもしれない。「3億円」は、その点でもハシリであった。

“認罪” NHKハイビジョン特集2008年12月10日 23:14

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もう10日余り前の放映ながら、今のところ再放送がなさそうなので、KWに書き留めておこう。
戦後の、というか戦後直後のことには分からないことが、まだ数多くある。謎は解けないままなのかもしれない。その一つが、今回の特集が提出しているソ連から中国に移管された‘日本人BC級戦犯’969名の問題だ。そもそもが「BC級戦犯」というカテゴリーが、嘗ての芸術祭テレビ作品「私は貝になりたい」で、少なくとも私にとっては初めて印象付けられたものであった。

映像は 1950年7月、この戦犯たちを搭載した列車がシベリアから帰国する鉄路から、方向を転じて新中国の満州地域へと動き始めるところから始まる。帰国を夢見ていた「抑留されていた」元日本兵たちにとって、新たな苦難の始まりだった。列車が着いた先は撫順の戦犯管理所であった。NHKの番宣によると「6年後、彼らは自らを戦犯と認め、裁判にのぞむ。しかし起訴は36名のみ。死刑は一人もいなかった。有罪とされた者も、その後全員釈放。BC級裁判の中で死刑を出さなかったのは中華人民共和国だけだった。しかしそこに至るまで、元日本兵たちは、真綿で首を絞められるような扱いを受けた」とある。
戦犯管理所での待遇は、シベリアとは比べものにならないほど良く、拷問があるわけでも無かった。しかし、罪状を自ら書かされ(認罪)、何度も書き直しを求められた。

番組の中で証言する元日本兵たちは、すでに八十歳を大きく過ぎた人たちだ。戦犯管理所に収容した兵士たちが、東大で哲学を専攻したエリートから、小学校だけしか卒業しなかった人たちまで、それぞれの貴賎能力の区別なく集合した集団であったのと似せたかのように、ある老人は理性的に、またある人は老獪なる農民の智慧を感じさせるインタビュー証言であった。それだけに立体的に、当時の雰囲気や怖さが伝わってきた。結果としてはなかったのだが、認罪の過程で継続した死刑の恐怖の中で、戦争中の自分の行為を見つめ直す。罪を犯した者、被害を受けた者が、戦犯管理所の「認罪」という極限状態の中で向き合う。精神に異常をきたす者も出る一方、自らの罪を認め、敵味方を越えた関係を築く者も現れる。

戦犯として扱われた元日本兵の側からの思いと恐怖と同時に、彼らを収容し管理する立場の中国人職員の側の悔しさの証言が、この問題の深さと奥行きを感じさせる構成になっていた。彼ら中国人職員は、日本人の人格を尊重し暴力を禁止するよう命令されていた。その「命令」の要の位置にいたのは周恩来であったことが提示され、元日本人兵への処分についての案が何回かにわたって現地の管理所幹部と上層部(そこに周恩来がいた)とのやりとりを示す文書が映像化されていた。やりとりの詳細については明らかにされていないが、肉親を殺された恨みを押し殺しながら、職員たちは日本人の思想改造につとめた。罪を犯した者、被害を受けた者が、戦犯管理所の「認罪」という極限状態の中で向き合う構図だ。

「認罪」というのは、外ではない日本にとって求められている歴史の総括の一つの方法なのではないのだろうか。映像に出てきた証言者たちのほとんどが、ソ連に抑留されていたときの立場は、敗戦によって「捕虜となった兵士」としての立場から、自らが「戦犯」として自らの罪を認めさせられようとすることへの、いわば「不条理」な感覚であったのだろう。「自分たちは天皇の命令によって戦った兵士であって、それ以上に罪を犯したものではない。戦場で振舞った行為は、戦闘の中でのお互い様で、強いられた戦闘行為に自らの責任・罪はない」と思っていたとしても、無理からぬことに思える。
だが、「強いられた戦闘であっても、戦場で行ったことへの認罪」を求められた状況というのは、戦争を自分たち自身では体験していない、親や祖父の時代の出来事で、自らは関わりがない、無縁の間柄だ、という世代にとっての「歴史認識」と通底したものがあるように思われる。

終戦の時点から11年余りが過ぎ、元日本兵は祖国の土を踏む。だが、この戦犯管理所を間に挟んで中国側に残った人たちの身の上には、「文化大革命」という嵐も吹きすさんだ、というのは、何と重層的な悲劇であることなのだろう。自分たちが恨みを押し殺し、対してきた管理所での元日本兵への扱いが、戦犯に甘く反革命的だ、と自己批判を迫られる。あらたな立場を替えた「認罪」。

特集は11月30日(日)午後7:00~8:50 BShiで放映された。いまのところ再放送のテーブルには載っていないようだが、考えさせられた特集だけに、記録に留めておきたいと思った。


文化大革命40年目の証言2008年12月21日 19:07

10万枚の写真に秘められた真実


「造反有理」。文化大革命とは、いったい何だったのか? 学生時代に隣の国で起きた社会運動は、決して他国ごとでなかった。

NHKのBShiで17日に放映された「文化大革命40年目の証言」は、BS1で06年7月に革命40年を機に制作・放映されたものの再放送だ。NHKが「アーカイブス保存番組検索」用に要約したものによれば「文化大革命を10万枚の写真に記録した中国人写真家・李振盛さん。写真をもとに、40年後の今年、そこに写し出された人々を訪ね文化大革命とは何だったのかを探った」。
李振盛さんは文革当時、中国黒龍江省で新聞カメラマンを勤め、職場での「造反派」のリーダーでもあった。それが、運動をしていく中で疑問をもつようになる。紅衛兵たちのやりすぎや、告発している者への疑問を感じるようになる。これを撮影しても、新聞に掲載されるのは、当たり障りのない大衆運動のものだけ。それ以外の過激な運動に対しては、撮影することすら当局が制限するようになる。「撮影して後世に残す」べきだと思い、危険と隣りあわせで、撮影したフィルムのカットを隠しながら、また撮影を続けた。文革は「告発」「密告」の時代でもあったようだ。李さん自身が疑われる番になる。家宅捜索で、隠し持った写真が見つからなかったことを幸いに、李さんは10万枚のコマを密かに隠し持ち、アメリカへと移住した。そして最近、文革写真集を出版、それを機会に、40年後からみた文革を、当時フィルムに定着された主人公たちに語ってもらうべく、中国各地を歩き始めた。その記録だ。

最初は、李さんが初めに疑問をもつようになった一つの場面、黒龍江省の極楽寺という寺の糾弾の場面だった。寺の僧侶たちが、「大衆」に対して糾弾を受ける姿だが、そのすぐ脇に並び、なぜか笑みさえ見せている一人の僧が写っている。この僧が仲間や先輩たちを「告訴」して、毛沢東思想普及の先頭に立ったのだ。当時すでに60歳近く、うだつの上がらない僧に見えた。「あれは告発に似せた僻みや憎しみだったのではないか」。その僧は、今回訪ねると同じ寺のいわば「上人」になっていた。数年前から寝たきりになっている彼は、李さんの文革当時の話について「聞かんでくれ。聞かんでくれ」というだけで、向こうを向いてしまう。その声は、当時のことを思い出すのも苦痛である、という苦しげな声に聞こえた。

次に尋ねたのは黒龍江省の行政のトップ、省長の糾弾風景に関わりのあった人たちだった。糾弾の写真は、大運動場一杯にあふれる紅衛兵大衆の前で、先をきって省長の頭にバリカンを当てている紅衛兵の姿だ。バリカンの刃を逆にして、敢えて省長に苦痛を与えながら丸坊主にしている――。省長の娘が親の女性関係を告発したのだと言われていた。その「娘」を探すうち、省長の次女の話を聞く。彼女は当時、紅衛兵の省の代表として北京の大会に出席し、毛沢東主席とも握手をしてきた。しかし、親の女性関係の話というのは、作られた罠で、姉が「脅されて」告発書を書いた、のだという。次女は以来、40年余り、彼女とは会っていないという。そして李さんの訪問にも「ノー」だった。

この省長にバリカンを当てている紅衛兵たちの消息については、当時の大学関係者を当たっていて、多少の情報が得られた。彼らの具体的な名前が分かったわけではないが、彼らが大学の中でも、党幹部の子息たちで、親を守るためには敵対する党幹部を糾弾するしたなかったのだ、という裏事情で、彼らが40年後に証言をするわけも、その後の所在もわからないだろう、とのことだった。

李さんは、そのほかにも運動の中で、10歳余りの少女が毛沢東賛歌を巧みな踊りとあわせ披露していた写真から「髪の黄色い少女」の40年後を探し当て、また毛沢東思想を多く学んだとして英雄とされ、胸といわず兵隊の服全体に紅衛兵たちから毛沢東バッジをつけられたた兵卒の写真と、現在の彼のインタビューなどもしている。紅衛兵たちが手に手に掲げ、打ち振った赤い表紙の毛沢東語録に書かれていた「修正資本主義への逸脱でなく、共産主義の本道へ立ち戻るべき道筋」などの言葉は美しかったが、現在の中国をみれば、それはまさしく金が支配している社会……。そんな言葉も聞かれた。

40年余前、学園闘争のスタイルが、カルチェラタンからの影響だけではなかったことは明らかだろう。当時、その理論が知らされ、共鳴を得たことに間違いはない。それが「紅衛兵」であり「毛沢東語録」だった……。だが、その国での実際の運動は、必ずしも理論の実践ではなかったようだ。三角帽子での自己批判強要があり、破壊があり、虐殺さえあった。中国での10数年にわたる「革命」が残したものは何であったのか。歴史の総体などというものは、その時代に身をおいていながら、あるいは身を置いているゆえに見えないのかもしれない。「文化大革命」とは、私にとっても、そんなものの一つであるようだ。

マリアンヌ2008年12月31日 00:15

マリアンヌ

マリアンヌ

まどろみの中に、不思議なモノローグが聞こえてきた。12月11日午前4時過ぎ。
「私は夕方から夜が好きだった。朝が来るのが怖かった……」。その女の人の声は、日本人のような西洋人の日本語のような風変わりな抑揚に聞こえた。「横浜の港で祖母が耳元で、スェーデンに帰ってくるんだよ」と何度も囁いた記憶。かばんの中に入っていた綺麗な外国人の女性と、彼女を抱くカッコの良い男性の写真。教室までマスコミが追いかけてきた日々。スェーデン人だった曽祖父が、お雇いで西洋船を日本へ廻漕して日本へやって来て、日清戦争では日本船の船長をして明治天皇から褒章を授かった人で、川越出身の女性=つまり曾祖母と結婚していたこと。横浜の外国人墓地に花を供えた翌日、スェーデンから来た親戚が墓に供えられている花から彼女と再会する偶然。さらに見たことのないままアメリカに帰った父親についての消息が分かり、連絡がとれたこと。――そんな話だった。なにやら、曖昧模糊としながらも、やたらにドラマチックな話とも聞こえた。

目を覚まして、NHKのラジオ深夜便の番組表を見ると、〔こころの時代〕 「自分探しの旅で得たもの」 葛飾区外国人アドバイザー  マリアンヌ・ウィルソン・黒田 とある。マリアンヌ、who?である。インターネットで検索してみると、(社)スウェーデン社会研究所が彼女の講演会を開くに当たって、紹介している文章に行き当たった。プロフィルを引用させてもらう――。

今回の講師は、マリアンヌ・ウイルソン・黒田さんで、その劇的な半生についてお話頂きます。マリアンヌさんは、米露冷戦時代のなかで特殊任務を負うアメリカ人の父親とは生前に別れねばならず、横浜で暮らしていたスウェーデン人の母親とも1歳の時に死別、以来、スウェーデン、アメリカ、日本と3つの祖国にまたがる自分のルーツ探しが始まりました。

「自分はなんのために生れてきたのか」という懐疑を解き明かしたい情熱と幾多の偶然に支えられ、ついに曾祖母が川越の日本人、山崎ナカで、その夫が明治初期に航海術の指導のために来日していたスウェーデン人、ジョン・ウイルソンであることにたどり着きました。曽祖父ウイルソンは天皇陛下から大勲章を授与された始めてのスウェーデン人であることも分かりました。

特別使命を帯びた米国軍人である父親の事情もからみ、国籍がないまま6歳の時にスウェーデン政府が身柄引渡し訴訟を起こし3年後にスウェーデン国籍を獲得しました。母親の知り合いの日本人養父母に世話になりながら18歳までスウェーデン大使館で暮らした後、スウェーデンの大学を卒業、そこに滞在していた日本人商社マンと結婚し再度来日しました。

マリアンヌさんのお話は数奇な宿命を負ったスウェーデン女性の感動的な一大ドラマです。現在はご自分の体験を生かし、地方自治体で外人アドバイザー、外国人の受入れ指導、DVに苦しむ女性の駆込み寺、公立学校の英語教師など多彩な活動を続けています。是非、多くの方のご参加をお待ちいたします。

――以上が、講演会で示されたプロフィルだ。
今回の深夜便の話は、結構、聞かれていたのだと思う。web上でも、いくつかの書き込みが引っかかった。その中で、意識覚醒してラジオの話を聞き書きしてくれているログがあった。http://blog.goo.ne.jp/kosyuanjin/d/20081211/[弧愁庵人の逆襲]というブログ(この後、暫くの休ブログ宣言が掲載され、現在休止中)だ。引用させてもらう――。

戦争。その前後の混乱。日本にいる外国人同士のカップルに子供が授かった。父は任務でアメリカに帰国しなければならなかった。妻子を連れて帰りたかったが、当時アメリカにとってスェーデンは敵国であった。承認できない外国人との結婚を認めなかった。日本に残された母親と幼子。悲しみに明け暮れてそして母は亡くなった。その幼児を日本人夫婦が育てたのだが、これも最悪。養父は酒乱。日本全国貧しかったけれども、輪をかけた貧困家庭。電気を止められる。食べ物が無い。父は金を入れず、母を殴る蹴るの暴行が日常。メアリーは朝が来るのが嫌いだったと言う。朝が来ないでそのまま死にたいと、ずっと子供の頃はそればかり考えていたのだと言う。

当時、彼女は無国籍児。アメリカは父と母の結婚を認めないから父親の米国籍は無い。母は結婚を認められてないから、スェーデン人の母の子であっても、戸籍上入れられなかったらしい?日本の育ての親は、もちろん日本国籍にして養子にも出来なかった。

後に知ることになるのだが、アメリカで父は何とか愛する妻子を迎えようと大統領にまで嘆願書を出していたのだった。何とかスェーデン人の妻を認めてほしいと、上院議員を使って議会に法案も提出したのだった。その提出日に、まったく時を同じくしてに母親は日本で亡くなった。(マリアンヌを手放したくない日本の養父母はアメリカ人の父を罵り、悪魔のような存在として教育した)

そのうちに、母方の様々な力で、スェーデン国籍を取り、人生が少しずつ好転していく。途中省略・・・・・・
日本人と結婚し、やはり父と会ってみたいと考えていろいろ調べた結果、アメリカに該当者がいた。亡くなった人間のリストの中に・・・・。そしてよく調べてみるとそこには「弟」が住んでいることも解かった。怖くて電話できずに、友人を仲介して電話することが出来たのだが、その際の会話は感動的だ。全て英語の会話に中で
「日本語で姉のことはなんて発音するのですか?」
「オネェサン・・」
「日本語で弟のことはなんと発音するのですか?」
「オトート・・」
「オネェーサン、父はロケットに貴女の母と赤ちゃんの写真を死ぬまで持っていました。毎年一年に一回、オネェサンの誕生日は食事も用意していました。父は悩んでいました。オトートはオネェサンに会いたかった・・・」

その後日本人の夫の薦めもあって、渡米し空港で涙の対面をして兄弟は抱擁しました。父が国に対してどれだけ働きかけたか、その法案が議会に提出された日に母が亡くなった事実を知ったときの驚きと悲しみ・・・。途中省略・・・・

十代まで、幸せという感情を味わったことの無いメアリーが、ようやく立ち上がり、強く生きている。今はアメリカにいる弟たち親族とスェーデンにいる親族たちが日本に集まることを毎年の楽しみにしているのだと言う。月々その積み立てをしているのだと言う。

天涯孤独の悲しみに満ちた人生のメアリーのルーツは、明治期、日本に航海術を教えに来日したスェーデン人であり、天皇から最高勲章を受けた外国人であった。今ではそのことを誇りとして、末裔たちが日本のメアリーのもとに集まるのだと言う。

――弧愁庵人さんの聞き書きだ。聞き手が違えば、ニュアンスやアクセントの違いのようなものはあるが、概ね、ラジオでの話は伝えられているように思う。さて、そんな話なら、どこかでマスコミが当時も大騒ぎをしたに違いない。検索してみるとあった。

昭和31年(1956年)3月8日朝日新聞朝刊の社会面トップ。横カットで「孤児めぐって愛情合戦」。縦の4段見出しには主見出し「育ての親と肉親の国」、脇見出し「14日、横浜で国際裁判」。主見出しの「育ての親」の脇には「日本人夫婦」とあり、「肉親の国」の脇には「スウェーデン」と振り仮名風に読みをつけている。マリアンヌちゃんの3段分の写真も載せている。当時の日本の記事がどのような書きっぷりか――。

 [横浜発] スウェーデン人を母とし、米人を父として生まれた6歳の少女をめぐって、この14日横浜で珍しい国際裁判が開かれる。どちらも子供の幸福を考えての”愛情の奪い合い”だが、この子を引取りたいというスウェーデン公使と6年間この子に愛情を注いできた日本人の育ての親との話合いがつかないまま法廷で対決しようというのである。

問題の女の子は横浜市神奈川区白幡1,021駐留軍要員山口正勝さん(35)同ヒデさん(33)夫婦に育てられているマリアンヌちゃんで6歳と11ヶ月。日本語をしゃべり日本人と同じものを食べ、もちろん自分は日本人だと思っている。母親のヴィヴィアン・ウイルソンさんは24年米軍属ジェームス・ヴォーン氏との間にこの子供をもうけたが、ボーン氏はすでに帰国しており、その後「ふとした誤解」(山口さんの話)から音信が途絶えた。マリアンヌちゃんが生まれて間もなく母親は胸を病んで死んだ。ヴィヴァンさんの父ウィルソン氏(50)はそのころ横浜国大の英語講師をしていたが、マリアンヌちゃんを育てることができないと、日ごろヴィヴァンさんと親しかったヒデさんに孫の養育を頼み、29年夏スウェーデンに帰ってしまった。
こうして山口さん夫婦の子供として育ったが、この4月小学校に入学するのに無国籍では――と去年秋、日米混血児協会の口利きで山口さんがマリアンヌちゃんと養子縁組をする手続きを始めた。ところが去年クリスマス前、夫妻は突然スウェーデン公使館に呼出されて公使のラーゲルフェルト氏から「マリアンヌをすぐ引渡してほしい」といわれた。子供はスウェーデンの国籍を持っているが、国籍や法律はどうあろうと夫婦はマリアンヌちゃんをすぐ返す気になれなかった。公使館側は2回にわたって外務所や日米戦災孤児委員会に頼んだが、話はつかなかった。
そのうちラ公使は転任することになってこの18日羽田を発つので一刻も早く引取って問題を解決したいと公使自身が本国政府から、「マリアンヌちゃんの後見人」に選ばれた。そして先月22日、ついに横浜地裁に「幼児引取り請求」の訴えを起こした。これを知ってヒデさんは「いよいよ子供を奪われる恐ろしさで毎夜眠られない」といっている。またマリアンヌちゃんが通っている武相高校付属金港幼稚園の「母の会」と地元の青年会でも「マリアンヌちゃん引渡し反対」の書名運動をはじめるという。

マリアンヌちゃんの話 遠いところへ連れて行くなんてそんなお話よして。私はマミー(ヒデさんを指す)のおなかから生まれたんだから……

ヒデさんの話 祖父のウイルソン氏は前の公使にマリアンヌの国籍をくれと頼んだけれど、許可にならなかったそうです。それで私に自分の子として育ててくれといって帰ったのです。いつかはスウェーデンに返さなければならないにしても、お嫁に行くころまでは手放したくない。どうしてもいけないならばせめて小学校をでるまで待ってほしいのです。

山口さん側の弁護人飛鳥田喜一氏の話 マリアンヌがスウェーデン人であるか、それとも米人であるかについては法律的に議論があり、争う方法もある。しかし外人の間に生まれた子供なので山口さんにはあきらめなさいと勧めたがきかれなかった。裁判で決着がつくのは子供には不幸なことなので話合いで円満に解決したいのだが……

スウェーデンの公使K・G・ラーゲルフェルト氏の話 裁判にまで持って行きたくはなかったが、どうしても山口さん夫婦の同意が得られないので、こうする以外に手がなかった。こちらが引取ることを承諾してもらえば、いつでも訴訟を引下げるつもりだ。マリアンヌちゃんがいまのまま日本でくらすとすれば、大きくなるにつれ”日本人でない”ことがはっきりしよう。就職、結婚……いろいろな問題が待ちかまえている。だから彼女がいちばん仕合せにくらせるところは、やはり母国ではないだろうか。引取ることになったら、東京にいる日本語の話せるスウェーデン人のいい家庭に半年か一年くらい預け、なれてから本国の適当な家庭に養子にやりたい。
スウェーデンでは孤児の数より、引取りたいという家庭の数がはるかに多いので、申し込んでから1,2年ぐらい厳選して、やっと養子縁組がかなえられるくらいだ。もし子供を引取るようになれば、山口さん夫婦には、これまでマリアンヌちゃんをそだてるのに要した費用をお返ししたい。もちろん、愛情を現金で買うつもりはない。私たちの感謝の気持だ。
ともかく一人の女性の長い将来の問題だ。山口さん夫妻にはたえがたいことだろうが、この際、思い切ってあきらめてもらいたい。今も子供は仕合せだろうが、私たちはもっと仕合せにしてやりたいのが願いだ。

――どっしりと、無国籍孤児をめぐる愛情合戦として、珍しい国際裁判を大岡裁判さながらの書きっぷりだ。多分に地の文は山口さん側の言い分をベースにしているように感じられる。大岡裁判か「藪の中」か。いずれにしても、もう少しマリアンヌ自身の記憶や公文書、当時の報道などを整理して考える必要がありそうだ。マリアンヌ自身が、友人たちと自らのドラマを書く準備をしているようにも聞いた。

なお、先の新聞記事の続き。予告どおりに31年(56年)3月に裁判が始まり、同年12月5日付の夕刊で横浜地裁の判決「母国に渡せ」。控訴して33年(58年)7月9日付夕刊で控訴棄却、つまりスウェーデン側の勝訴となり、上告期限ぎりぎりの24日夕刊で示談が成立。同29日朝刊で「マリアンヌちゃんに生活費など支給 スウェーデン政府」の記事がある。