蟹のつぶやき kanikani

日めくりタイムトラベル2009年04月12日 07:23

(無題_09年04月12日_072548)


「昭和のとある1年」が、どんな「1年」だったのか。
それを映像や、その年に生まれたゲストが検証したりする。タイム・トラベル。毎月、BS第2チャンネルで毎月第2土曜日の夜8時から11時まで放映して、すでに19回が終わっている。毎回の番組をなるべく見ている。懐かしいのと、現在の眼から見て、あの時代が、どういう時代であったのか、と位置づけを含めて考える参考になるような気がしている。今回は「昭和40年」。
私は大学1年から2年になる頃だった。1月から2月にかけて慶応大学の授業料闘争があり、学校側が譲歩した。それ自体は過激でもなんでもなかったが、その後の学園闘争の序曲。「テケテケテケ」のエレキ・ブームを齎したベンチャーズの来日。丸山明宏(美輪明宏)の「ヨイトマケの唄」のレコード発売。「売血」から「献血」へのキャンペーンや、テレビコマーシャルの「わたしにも写せます」というフレーズが流行語となった、扱いが簡単な新方式の8ミリカメラ「フジカシングル8」発売など、今から考えてみると、この年の時代的な転換点としての意味が見えてくるように思える。
が、何よりこの年を特色付けているのは「ベ平連」運動の始まりの年であることだろう。小田実や開高健の呼びかけによって結成されたのが「ベトナムに平和を!市民・文化団体連合」、通称「べ平連」だ。清水谷公園での集会から、8月15日の徹夜ティーチイン、カンパを集めてのNYタイムズ紙への反戦広告掲載など、その残した足跡は消え去ることはなし。何より、その組織論としての「ベ平連」は忘れてはならない、智慧の結集の成果だと思われるのだが、これを継承して地道に大衆を糾合していけるだけの組織論、なにより「役者」が出てきていないのだろう。昭和40年生まれのゲストをはじめ平成に近い若者?にも、改めて、この日のべ平連と、その周りでそれを「しなければならない」と思い、「北」の被害に思いを寄せられた人々への話には共感以上のものを与えたようだ。


惜別 仕事人生2009年04月26日 09:27


大倉 文雄
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人は一生に一冊の本が書ける、という。その一生を本に例えた言葉だが、この人の場合、2分冊に分け、細々としたデータを含め、その半生を書いている。序章で「死後の世界はわからないが、私が勝手に想像する浄土は、まず輝くばかりに明るくなくてはならない。そして、さぜか寒気の厳しいところである」としているのも、彼にとって生涯で一番印象深かったのが、1963年11月に立った南極点の記憶だからだろう。大倉文雄。朝日新聞の学芸・科学部から経済部から、テレビ朝日取締役、静岡県民放送(現静岡朝日放送)社長。新聞記者の駆け出し時代から、それぞれの時期の話がすべて実名で記述されている。日銀担当時代に次期総裁の人事を誤報した、などというのは新聞記者としては命取りほどの誤報だが、誤報も大きければ大きい方が良いのかも。有楽町にあった朝日新聞の社屋が築地へ移転する際、阪急や日劇と共同でマリオンを建てていく裏話、テレビ朝日での10年間の文化活動へのアプローチなどを書いている。恐らくメモ魔という言葉が昔あったが、この筆者は、事細かにメモを残してきたのであろう、と思った。