蟹のつぶやき kanikani

惜別 仕事人生2009年04月26日 09:27


大倉 文雄
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人は一生に一冊の本が書ける、という。その一生を本に例えた言葉だが、この人の場合、2分冊に分け、細々としたデータを含め、その半生を書いている。序章で「死後の世界はわからないが、私が勝手に想像する浄土は、まず輝くばかりに明るくなくてはならない。そして、さぜか寒気の厳しいところである」としているのも、彼にとって生涯で一番印象深かったのが、1963年11月に立った南極点の記憶だからだろう。大倉文雄。朝日新聞の学芸・科学部から経済部から、テレビ朝日取締役、静岡県民放送(現静岡朝日放送)社長。新聞記者の駆け出し時代から、それぞれの時期の話がすべて実名で記述されている。日銀担当時代に次期総裁の人事を誤報した、などというのは新聞記者としては命取りほどの誤報だが、誤報も大きければ大きい方が良いのかも。有楽町にあった朝日新聞の社屋が築地へ移転する際、阪急や日劇と共同でマリオンを建てていく裏話、テレビ朝日での10年間の文化活動へのアプローチなどを書いている。恐らくメモ魔という言葉が昔あったが、この筆者は、事細かにメモを残してきたのであろう、と思った。

通信技手の歩いた近代.html2009年03月20日 22:51

通信技手の歩いた近代.html 通信技手の歩いた近代

通信技手の歩いた近代

「歴史」というのを、一人の人物の歩みで振り返る試みは、歴史が人物に寄り添って見えるだけに、より親密な感じがする。筆者は冒頭「旅じたく」という序章で「いつの時代にも誰知らず置き忘れられた無数の人生が存在する。この物語はそんな人生のひとつを拾いあげたものである」としている。たまたま寄せられた、一人の老人が書き残した日記をもとに、時代を追っている。「通信技手」というのは、「電信」に関わった明治時代の官吏の端に繋がる職種である。 本のDBの紹介――幕末土佐で下級士族の子に生まれた男が、文明開化で沸く東京で電信技術を習得、明治政府による人民管理・治安維持の手段となった電信機を操作。読み書きそろばんと英語を武器に淡々と生きる様を通し、明治・大正の時代を描く。

主人公は万延元年(1860)6月16日、土佐国高知の城下町に生まれた。その3ヵ月前、幕府大老の井伊直弼が江戸城桜田門外で水戸藩浪士ら18人に襲撃され落命している。明治という新しい時代が到来するまで8年。「そして、封建遺制の一掃を画した維新の大変革を経て、富国強兵・殖産興業を合言葉に産業資本主義と帝国主義の道をひた走った極東の小国にあって、かれは近代化の波濤で危うく揺れ動きながら、家族との慎ましい生活を守ろうと悪戦苦闘する。やがて70年を生き抜いたかれが、家族に看取られながら死出の旅につくのは昭和6(1931)年11月25日。2ヶ月前の9月18日夜半、満州(現中国東北部)に駐留する関東軍(日露戦争後に関東州と南満州鉄道沿線に配置された日本陸軍部隊)が柳条湖の満州鉄道線路を恋に爆破、これを中国軍の仕業と宣伝し、独断で満州占領の軍事行動を起こしていた」(旅じだく)

主人公は山崎養麿。彼が生まれた「土佐の幕末」の情勢から書き始める。坂本竜馬であり吉田東洋、武市半平太であり、山内容堂の時代である。確かに土佐藩というのは、維新後、「官軍」の端っこにあるような顔をしながら、藩の足元では勤皇佐幕のせめぎあいは他藩と同様であった。それが「維新」前後の空気であり、風であったのだろう。
身分は低いといいながら、武士という身分のサラリーマンが、急に会社がなくなり、全員解雇されたときに、どのようにして食っていくことができるのか、というテーマは現在でも身近な問題だ。主人公は、英語を学んでいた。これが身を救う。はじめ親戚を頼って神戸の鉄道局の給仕に。そして、そのあと15歳のとき「官費生であり、工部省吏員になれる」という魅力から、ちょうど募集が始まった電信修技学校の生徒になる。学校は東京と大阪に設置されたが、すぐに養麿が通い始めた大阪の学校は、東京に吸収合併され、住まいも東京へと移る。

「明治政府にとって<文明開化>の象徴的な意味とは、ひとえに国家全域に鉄道網と電信網が配備された近代的な国土の実現にほかならなかった。かつて浦賀に来航して徳川幕府に開国を迫ったペリー艦隊が、西洋文明の粋として<半開>日本人にみせつけて衝撃を与えたものこそ、蒸気機関車の模型とモールス式電信機だった」と時代背景を説明しているが、「電信」というインフラに明治政府は異常なほどの執念を燃やし、整備をいそいでいることは、改めて思う。いまだに「電気」を送っている柱以外でも「電信柱」と呼称するのは、やはりその名残であるようだ。

明治8年10月に修技学校で1級修技生となり、12月にわが国の電信局の第1号局である東京・築地局に配属される。明治も10年になると西南戦争が起き、それ以外のあちらこちらでも物騒な動きが報じられる。それに伴って、主人公も出張命令や転勤の旅を繰り返すことになる。その地は、神戸、高松、福島、仙台、臨時局が夏だけ開かれた日光にも行った。東京の空気は悪く子どもが病気になったりして、大津事件の直後には大津に移ったりする。

時に日清戦争が終わった明治28年、講和会議で得た遼東半島の割譲に三国干渉が行われ、「臥薪嘗胆」が合言葉になる頃、主人公は一旗あげるべく、逓信局の書記を辞して、台湾へ渡る。台湾も清国から割譲されたものの、「台湾征討」という言葉通り、実際には日本の支配・施政に抵抗する運動は強く、そこは「活火山」のような戦場であったらしい。

初代台湾総督に任じられたのが海軍大将の樺山資紀。台北までは無血入城できたもののその南への道はゲリラ掃討戦であるから、神出鬼没の相手を捕らえるニューロンとしての電信線の敷設、交信は双方にとって命がけの作業であった。樺山総督で片付かず、北白川宮能久親王が近衛師団を率いて掃討に当たり、親王はマラリアで戦病死する。ここに「全島平定」宣言をするが、2代目総督桂太郎、第3代乃木希典にしても、武断一本やりの軍事弾圧はゲリラの反発を煽った。主人公は賞勲局から戦功による章や金一封を受けている。
乃木のあとの4代目は智将・児玉源太郎で、腹心に後藤新平を引きつれ台湾入りする。軍事弾圧から一転して島民懐柔に向かい、一大機構改革をして財政改革も断行する。主人公は、この煽りをまともに食らって、再び失職してしまう。

実は主人公が台湾に渡った背景の一つには、電信技術の上での革新についていけなかった節が窺がわれる。一つは電話による置き換えだが、これには未だ雑音が甚だしいとか、料金が高すぎるなどの条件があって、目の前のものではなかった。一方、電信の世界では、従来の印字機で技手が打電していたドット、ダッシュというモールス符合を「トン」「ツー」という音に変換して送受する音響式電信機の導入で、主人公は、これに着いて行けなかった、ということらしい。

尾羽打ち枯らして、主人公は帰国する。折角、逓信省の吏員の末端から、少しずつながら出世もしていた一切を擲っての台湾行から戻る姿は、いわば無一物での帰国だった。「月給」を受け取るサラリーマンに戻るのは一苦労だった。「雇員」として大阪郵便電信局にもぐりこむ。「日給金五十銭」が辞令だった。月給に戻ってホッとする間もなく、明治36年の官制改革で「廃官」になる。リストラだ。成績優秀だった長男の進学もままならぬまま、長男は商社の給仕に入りながら夜学で勉強する。その長男の学校の縁で、大阪高商の書記(事務職員)となる。長男は山口銀行に入る。のちに鴻池銀行などと合併して三和銀行となる。天満の大火事などあって、現在の阪急宝塚線の岡町に阪急が売り出した土地を買い、そこに安住の地を求めた。

筆者は甲子園大学経営情報学部助教授で『明治電信電話ものがたり――情報通信社会の<原風景>』(日本経済評論社、2001年)などの著書があり、ITや電信電話の歴史を専攻している。この本のもととなる「日記」も紹介した著書を読んだ、主人公のお孫さんが、筆者に提供したものだという。研究者にとっては僥倖であったかもしれないが、時代背景というか時代の空気を書き添えることで、立体的に一人の人物が歩んだ「近代」という時代が読めたような気がした。




国家と宗教 宗教から見る近現代日本2009年02月11日 18:24

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明治の初め、「廃仏毀釈」といい「神仏分離」の動きがあった。それまで共存していた神社と寺が、分離され、寺の仏の首が切られたり、寺宝級の美術品が流出した。そう、歴史の教科書で習った。しかし、それ以上には、何故、明治維新のこの時期で、どのような経過を辿ったのか、ほとんど教えられることはなかったし、なかなか良書にもめぐり合えなかった。

本書は京都仏教会監修、洗建・田中滋編。上下巻の2冊。下巻は「新憲法体制から新自由主義体制へ」とあり、時代区分を含めて上下巻の構成がはっきりしている。京都市の古都保存協力税条例をめぐって、拝観拒否の旗を振った仏教会が、一般市民はさることながら、宗教者の間ですら「信教の自由」と「政教分離」の意義に対する理解が乏しいことに驚いて研究会を重ねてきた成果であるらしい。いわゆる「拝観寺院」が生まれた歴史でもあるらしい。


私の興味に答えてくれるのが今回の上巻の部分。ことに第1部「国家神道」形成期の葛藤が面白かった。その構成を目次から拾う――。

1. 国家神道の形成                         洗 建
2. 近代国家と仏教                      末木文美士
3. 神仏分離と文化破壊 -修験宗の現代的悲喜                    井戸 聡
4. 国家の憲法と宗教団体の憲法 -本願寺派寺法・宗制を素材に               平野 武
5. 井上円了と哲学宗 -近代日本のユートピア的愛国主義           岡田 正彦
6. 近代日本における政教分離の解釈と受容      小原 克博
7. 国家神道はどのようにして国民生活を形づくつたのか?-明治後期の天皇崇敬・国体思想・神社神道      島薗 進
 
「国家神道の形成」の「はじめに」の書き出しが、非常に腑に落ちた。――(40p)

日本の近代は明治維新に始まる。「尊王攘夷」をスローガンに進められた倒幕運動は、黒船の来航に屈して開国した幕府への怒りから始まった。その意味では攘夷が目的であり、尊王は倒幕のために必要な大義にすぎなかったはずである。しかし、政権を奪取すると攘夷は放棄して文明開化政策に路線転換し、新政府には尊王だけが継承された。幕末、尊王思想にはいくつかの流れがあったが、明治新政権と結びついたのは、復古神道の流れを引く国学運動の尊王思想であった。新政権の軍事的中心は薩長であったが、尊王イデオロギーの担い手としては、津和野藩を中心とする国学者たちが重要な役割を果たし、それが近代日本の宗教政策に大きな影響をもたらすことになった。明治政府は実際には薩長が実験を握っていたのであるが、それまでの武家政権のように天皇から統治権を委託されるという形を取らず、建前としては「天皇親政」を謳っていた。そこで天皇の政治とはどのような政治なのかをまず明らかにしなければならなかった。明治元年に出された「祭政一致の布告」がそれであり、起草者は津和野藩士で国学者の福羽美静であったといわれる。

《祭政一致ノ布告》(布告第153号、明治元年3月13日)
此度、王政復古、神武創業ノ始ニ被為基、諸事御一新、祭政一致ノ御制度ニ御回復被遊候ニ付テハ、先第一神祇官再興御造立ノ上、追々諸祭奠モ可被為興儀、被仰出候。依此旨五畿七道諸国ニ布告シ、往古二立返リ、諸家執行配下ノ儀ハ被止、普ク天下ノ諸神社・神主・禰宜・祝・神部ニ至迄、向後、右神祇官付属ニ被仰渡間、官位ヲ初、諸事万端同官ヘ願立候様、可相心得候事。

――つまり、明治維新政府は「天皇の政治」を神話上の初代天皇とされる「神武天皇の政治に帰る」こととしたわけだ。神を祭り、神に導かれて政治を行う「祭政一致」の政治である、と。そこで平安時代の制度を範として、天皇の下に神祇官と太政官という二大官庁を置き、神祇官が神祀りを、太政官は世俗の政治を担当する、ことにして神祇官を再興し、全国の神社は私的な運営を廃して、神祇官直属の施設として、神職は官吏扱いする、というものだ。

こうして「神道国教化」の時代が明治元年から4年くらいの時期。最初に行われたのが「神仏分離」「神仏判然」政策。
神道はわが国固有のアニミズム的、シャーマニズム的な自然発生的宗教であったが、仏教が移入されると当然の結果として神仏習合が進み、特に平安期に生まれた本地垂迹説がひろく受け入れられて、神はその本地である仏が顕現したものであると信じられるようになっていた。幕末には神社は存続していても、それは仏教の一部であったのであり、独立した神道という宗教は存在していなかった。その意味では儒仏以前の純粋神道を構想した復古神道、国学運動は、当時は一部の人々が信じる新宗教に過ぎなかったのであるが、これが国家権力と結び付いたので、千年に及ぶ日本宗教の伝統に大変革がもたらされることになった。祭政一致のためには、復古神道の理念に合致する神社を新たに創出する必要があり、世に廃仏毀釈といわれた過激な方法で、神社から仏教色を一掃したのである。一括して『神仏判然令』と呼ばれている13の政府命令が出され、国学者や神主などが先導し、動員された村人なども鍬や鎌で武装して神社におしかけ、そこに祀られていた仏像や仏具を破壊された。当時、神社には本地とされる仏像が祀られ、神主は剃髪した僧形でお経を読み、護摩を焚いていた。平家物語に出てくる比叡山の僧侶が朝廷に強訴を掛けるとき、担いできたのは日枝山王の神輿であって仏像ではなかった。大宰府天満宮に伝わる江戸時代の祭り絵巻に描かれているのは、神輿を担ぎ、行列するすべての人々が僧形をしている情景である。秩父神社の倉庫には、江戸時代まで鳥居に掲げられていた「妙見宮」という額が眠っている。これをわずか2年という短期間に一変させたのが、神仏分離政策であったのである。
神社の純化だけでなく、皇室も神道化する必要があるので、皇室からあらゆる仏教行事や施設を一掃した。歴代天皇の位牌を安置していた「お黒戸」は撤去され、皇室とゆかりの深い泉涌寺に移管された。皇室では正月に真言宗の僧侶が参内して正月御修法(みすほ)を執り行うのを手始めに、順次、天台、真言の僧侶が参内して仏式の年中行事を行うのが慣例だったが、これはすべて廃止され(明治3年)、両宗が宗門内でこれらの天皇のための御修法を行うことも禁止された(宗門行事として復活させることが許されたのは、真言宗が明治17年、天台宗は大正9年)。
仏式の施設に代わる神道施設として、いわゆる宮中参殿(宮中に八百万の神々を祀る神殿、歴代天皇霊を祀る皇霊殿、三種の神器を祀る賢所)が建設された(明治4年)。宮中三殿で行う神式の行事を整えるのには時間がかかったが、明治41年の「皇室祭祀令」によって確定された。
一方、キリスト教に対しては徳川時代を引き継ぎ、これを禁圧する政策を採った。キリスト教が解禁されたと誤解した潜伏キリシタン信者が一斉に検挙され、津和野藩など藩によっては拷問を加えるなど、近代日本最初の大規模な宗教弾圧事件が起きた。しかし、これに対してキリスト教を自らの宗教とする欧米諸国の反発を招き、新政府は「信教の自由」という西洋の理念に直面させられることになり、困惑した明治政府は明治6年、キリスト教禁止は周知のことであるからとの理由で、禁制の高札を撤去し、以降事実上キリスト教の活動が黙認されることになった。
「神仏判然令」で行き過ぎがあることには「廃仏にあらず」など通達が出るが、一方、太政官は近代化に欠かせぬ措置として「社寺領上知令」を出して、寺社の領土を取り上げた。それは仏教の抑圧が目的ではなかったが、領民の年貢を経済の基盤としていた主として天台、真言、臨済の大寺院に経済的な大打撃を与えた。政府はこれに対する金銭的補償の約束をしたが、実際には財政難を理由に実行されなかった。ここから拝観料をとるいわゆる「観光寺院」が誕生、さらに明治6年頃からの地租改正も仏教には大打撃だった。所有権の証明が困難な境内地などが広範に国家に没収され、官有地に編入された。

ついで「大教宣布運動――神仏合同布教」(明治5年~8年)
神祇官による神道的国民教化は実際には何の成果も上げられず、一方で仏教をそのまま放置すればキリスト教が浸透化することは避けられず、そうなれば共和制の議論も出て天皇制が揺らぐ恐れがある、と太政官のもとに教部省(明治5‐10年)を儲け、全国の僧侶・神職(最盛期には落語家や講談師も)を教導職に任用して国民教化に当たらせることとした。
そうこうしているうちに「信仰の自由」をいう日本人が出てくる。一人は後の文部大臣森有礼であり、当時駐米外交官を務めていた。もう一人は宗教界を代表して岩倉訪欧視察団に加わっていた真宗の島地黙雷。彼の主張――。
「三条の教則は政教を混同する過ちを犯している。政治は人が行うもので外面の行為のみを規制する。それは国によって違いがあり、適用される範囲も国内だけである。宗教は神仏にようるもので人の内心に関わる。そこには国境はない。三条の教則で言う『敬神』は宗教であり、『愛国』は政治であるのにこれを混同している。天理人道というのは、宗教信仰の結果として生ずる道徳である。それは徳の高い宗教者が説いてはじめて民心が感服し、その結果を得ることができるのであり、結果だけを説いても人を信服されることは出来ない。尊王というのは国体であり、いまさら口にすべきことではなく、朝廷の命令を遵守させるというのは専制君主のやり方である。そのようなやり方では衆論を戦わせるうちに、どんな失誤が出るかも知れず畏れ多いことである。真宗はこのような間違った運動に参加できないので、大教院から分離して仏教に基づく独自の教化をする」(明治5年)と論じた。明治政府は明治8年、「信教の自由保障の口達」(8年11月27日)を出して、大教宣布運動は事実上終結。

「自由と模索」(明治9年~15年)
「口達」では教導職の任用試験を政府が行っていることについての弁明の形で出されているが「宗教者は単に行政の妨げにならないよう務めるだけでなく、朝旨をよくわきまえ、人民を善導し、天皇の統治を翼賛するのが宗教者としての義務である」との内容。政府が公認した宗教団体に、国家が認める範囲内であれば、それぞれの教義に基づいて自由に教化をすることが出来るように、政府が行政的保護を与えてやる、そのことが「信教の自由だる」というのだ。大日本帝国憲法(明治22年)で「日本臣民の権利として」信教の自由が認められた後も、公認宗教制度は廃止されず、自由は「臣民たるの義務に背かない」範囲に制限されていたので、憲法学の学説上はともかく、実際の行政上はここでしめされた「歪曲された信教の自由」が「日本の信教の自由」であり続けたと言っても良いであろう。

「国家神道体制」(明治15年~)
明治15年に内務省達第1号が発せられる。「自今神官は教導職の兼補を廃し葬儀に関係せさるものとす此旨相達候事」。神職を教導職からはずし、葬儀への関与を禁止することにした。この通達は、神主は「説教」をせず、日本人にとって宗教そのものである「葬儀」にも関与しないから、「神社は宗教ではない」という偽装理論を構築するための措置であった。神社非宗教論は国家神道を支える基本的論理であるから、この通達が国家神道体制の出発点であると考えられている。
この論理は「尊王は国体也、数に非ざる也」として、天皇崇拝を政治とも宗教とも区別した島地黙雷の「三条の教則批判」からヒントを得たものといわれる。皇室祭祀、神社祭祀を宗教と区別するため、祭と政を分離すれば、宗教を一致させても、政と教は分離されるので、信教の自由を侵害しないという理屈である。実際にはこれを分離することはで不可能であり、分離は言葉の上の遊びでしかならない。
現在なお、「神社はいわゆる宗教とは異なる」という人々がいるが、日本人はもともと神、仏を並べ称して信仰対象としてきたのであり、仏は宗教であるが、神は宗教とは異なるなどと考えてきた事実はない。神社は宗教ではない区別する考え方は、此の時期に政府・官僚が作り出したものに過ぎない。
明治二十二年に「大日本帝国憲法」が発布され、その第二十八条で「日本臣民は安寧秩序を妨げず及臣民たるの義務に背かざる限りに於いて信教の自由を有す」と信教の自由の保障が規定されたが、その時には、すでに神社は宗教ではないという基本路線が敷かれており、明治当初からの宗教公認主義もへんこうされていなかってので、その保証はきわめて限定されたものにならざるを得なかった。

いわば読書メモだが、明治時代の混乱の一つとして、良く分からなかった歴史の部分がちょっとわかってきたような気がする。

フリーペーパーの衝撃 (集英社新書 424B)2009年01月23日 09:43

フリー

フリーペーパーの衝撃

「R25」「ぱど」「ホットペッパー」……。ターミナルを中心に無料の紙が氾濫している
。それも、それなりの内容を持ったマガジン、となると「衝撃」である。新聞受けには、地域紙や手配りをしている無料新聞が放り込まれている……。新聞にしても、雑誌にしても、有料が当たり前だったのに、なんで「無料」が成立するのか、という仕組みの話から、インターネット時代の活字文化と、ウエッブの世界との架け橋になるとか、ならない、といった文化論にまで話は及ぶ。なかなか取材は行届いているといえる。恐らく、事態は日々動いているのだろうし、数年後には「そんな時代があったの」というくらい、動きは早いはずだ。ここに描かれている数年前のことから、現在のことが考えにくい状態があるほどなのだから……。

フリーペーパーが成立する条件は、広告を伝えたい対象にいかに絞って伝えることができる、という媒体としてのあり方にかかっているようだ。従来の媒体で漏れていた、伝えきれない対象に、どのようにしてデリバリーするのか。ターミナル駅構内のラック、書店に並んでいるラック。以前には見かけないものだったのが今では大威張りの態だ。紙と雑誌とを対比してみると、スエーデンで始まり全世界に展開している無料紙「メトロ」の日本版「ヘッドライン・トゥディ」は、創刊4ヶ月で週刊に転じざるをえなかった。なぜ巧くゆかなかったのか。02年7月という時期だったからか。①コンテンツとしての情報②印刷できる場所の確保③媒体を置くラックなどの確保、そのいずれもが巧くはいかなかったようだ。それは厳しい日本のマスコミ界の危機感の裏返しの表現であったのかもしれない。

だれでもが出せる「紙のブログ」、という章には、高校生の起業プロジェクトの実験が紹介されている。そういう時代なのだと納得させられる。同時に時代の空気を吸いながら、時代の隙間というものにビジネスチャンスを見出すことも。

一つ、豆知識。かつて広告のメカニズムを図式化した言葉に「AIDMA」という言葉があった。Attention(認知) Interest(興味) Desire(欲求) Memory(記憶) Action(行動)の頭文字。それが現在では、別の表現になっているのだそうだ。「AISAS」。「AI」のあと Search(検索) Action(行動) Share(意見共有)。ウエッブにおける消費行動とその結果にいたる流れを示したものだという。ここでも意識は変わっている。


作家と薬2008年11月27日 19:48

作家と薬 ――誰も知らなかった作家と薬の話.html 作家と薬

作家と薬 ――誰も知らなかった作家と薬の話

松本清張作品の中で、どのような薬が扱われているか。『点と線』では青酸カリが14回、『ゼロの焦点』でも青酸カリが18回……。文学作品、作家と薬の実証的な研究で、夏目漱石、正岡子規、森鴎外から清張、太宰治、坂口安吾まで19人の作家の創作活動と薬に関わる24章、というのが本書だ。

「薬事日報」という医薬業界の「総合専門紙」に半年に1度のペースで連載されたもの。筆者は、一橋大学卒。山之内製薬で理事を最後に退職するまで勤め上げた文科系の人のようだ。定年になったあと平成5年から18年まで東京薬科大学などで非常勤講師を務めているから、このように薬と文学、作家のついての講座を持っていたのかと推測される。

作家の概括をしたうえで、薬が作品にどう登場しているか、さらに作家が実際にどのような薬を使っていたかを日記や書簡に踏み込んで数を上げている。作家論としても簡便な紹介になっている。

漱石でいえば胃潰瘍、神経衰弱。子規では長い結核の闘病生活があり、特効薬がない時代であるのでクレオソートが服薬されていた、という。結核への投薬の歴史も窺がえる。
中で福沢諭吉の章が、ちょっと変わっていて興味深かった。それは諭吉が遣欧使節の一員として西欧を見て、欧米の医療、病院施設なども具に研究をしてきただけに西洋医学の進んだ実績を強調、一方で漢方は古典に従うだけであって進歩がない、としている。「真理原則から見て西洋の医学流が国民のためである」と時事新報の社説で主張。当時、民間に盛んだった「売薬」は無効である、という「売薬無効論」を公にして、政府が打ち出した売薬に税金をかける売薬印紙税は結構なことだ、と論陣を張った。これに対しては、結束した売薬業者から営業毀損回復の訴えを起こされ、1,2審では敗訴する事態を迎えている。明治18年12月25日の上告審判決では逆転無罪となったのだという。諭吉の主張は1)売薬は人の病に効かない。効能があるほどの薬は、誤用して害を与えるから政府が許可しない2)売薬に効能がなくても、寒村僻地で医薬の入手が不自由なところでは、これを服用することにより心が慰められることもある。薬の効き目というよりも、薬という名前が心理的に働いて効くのである 3)一般の人は意外に売薬が無効なことを知らずにいるが、それは愚かなことである。売薬の課税は人身に少しも害を与えず、また人情を傷つけることもなく、税収は増える――というものであった。なるほど、である。

目次は以下の通り。
第1章 夏目漱石と薬/第2章 正岡子規と薬/第3章 森?外と薬/
第4章 福沢諭吉と薬/第5章 樋口一葉と薬/第6章 島崎藤村と薬/
第7章 寺田寅彦と薬/第8章 永井荷風と薬/第9章 志賀直哉と薬/
第10章 武者小路実篤と薬/第11章 谷崎潤一郎と薬/第12章 石川啄木と薬/
第13章 芥川龍之介と薬/第14章 宮沢賢治と薬/第15章 川端康成と薬/
第16章 坂口安吾と薬/第17章 太宰治と薬/第18章 松本清張と薬/
第19章 遠藤周作と薬/第20章 漱石とフレミング/第21章 漱石と子規の交流/
第22章 漱石と寅彦と薬/第23章 荷風と谷崎の絆/第24章 直哉と実篤と薬