蟹のつぶやき kanikani

明治31年の日記2007年05月25日 15:47

明治三十一年九月以降

九月一日 旧盆十六日 雨

朝来上京の準備に忙し 宗像八波則吉氏*よりはがき来て四日出発同行せん その前日〓〓連行れと。高田〓常氏外日下部伝造氏〓〓村人の来訪するもの多し 本日は二百十日の厄日なるも風横〓なく雨しとやかに降りて豊年の状現れたり。此年は初夏以来晴雨季を得て炎暑は近年稀なる度合い九十二三度にも達することあり而て時々降雨の為め池河水は充分 稲苗の廻ること人夫農人の喜び一方ならず

*八波 則吉(やつなみ のりよし)  国文学者、国語教育学者。明治9年~昭和28年。福岡県生れ。東京帝大国文科卒。 明治34年金沢の第四高等学校教授。大正5年文部図書館に入り読本の改正に尽力。尋常小学国語読本(ハナハト読本)を編纂。大正9年に熊本の第五高等学校教授となり、多くの著書を残す。

二日 雨  七月十七日

昨日より引続きての降雨 来訪人増し繁し故郷人の親切なる感ずるに余あり 来訪者と冷酒を〓して明朝途出の祝意を表さる 夜に入り余が竹馬の友なりし青年会員一同に冷酒祝肴をすすむ 彼等亦贈物をなして余の行を祝す 后十時 寝に就く 祖母と蚊帳を同くし共に臥す 祖母は当年八十一の高齢 徐に余に語って曰く「操よ、明日は愈々出立になりたるなり 共に臥するも今夜一夜、我は年既に八旬を経ゆ 最早老年 汝が避夏休暇帰省迄は期し難かるべし。彼地に行かば身体に注意し 病気せぬ様 勉業」此言頻に聞く事なれども今度こそは実に涙の出る様、難有くまた悲しき心地せり

三日 午前大雨 旧十八日

朝六時起床 雨止むべくも見えず 村人の余を送るものは降雨をも物ともせず幾人ともなく来りぬ。 直ちに用意して発す 厳父、及び日下部惣吉、同茂、同磯吉の三氏 博多迄送る厚意謝するに辞なし 村端づれ迄送るもの数十 篠つく雨は談話もなし得ざりし 祖母は此雨に洗足 余路おうて村端迄来られ 亦 余に后来の戒を告けらる。 母と妹にも村端迄見送る 老司 にて少時休息。雨 尚やまず。少時 雨止む(和田商店の大通り) 十一時 春吉津田守彦叔の宅に着す。余に直ちに福岡天神丁 松岡氏方に入部山崎の祖母を訪う。東京への言伝物を托せらる 十二時 春吉に帰り 叔父 余が為に饗宴を張らる 本日 同方に女 春女 病気危篤入院治療中なりしが結果如何なりや 〓〓〓に〓〓方桜井兄来る 后三時 以上記載の人々に導かれて駐車場に至る 厳父と兄とは、箱崎の駅にて下車し病院に向う 四時前 福間駅着。腕車を走らせて内殿村八波氏を訪う 同夜 同氏友人の招待により八波氏と共に饗宴に預る 「〓〓か」を見る。田舎の風光(否夜景〓)を看察す 同夜内殿宿す 正午より一天〓〓が如く快晴となる

四日 晴 十九日

前九時起床 八波氏は同地小学校にて氏の為に設けられたる送別かに臨む 在東郷の人 藤井彰三介来て伴うて停車場に行き八波氏を待つ(角屋) 角屋楼上に於て八波氏見送り人に酒肴を振舞う 后一時 福岡駅発 赤間にて法科大学生深田千太郎氏と同車す。四時門司着 松莚旅館に投ず 入浴、少時 理科大学生伊豆直吉、東京〓〓生、伊豆利次氏来り会す。宿主に命じて新橋迄の連続切符を購わしむ(価 五円六十銭 舟二等 車三等) 目下 汽車汽船互いに競争中 汽船は大阪駅に行(門司迄)三等一円と広告せり 待合所に行く 高等商業学校生徒鎌瀬貞蔵氏と会す。氏至りて同行都合六人。 十時参拾分 平和丸にて門司を出帆す 海風徐に来りて海面鏡の如く。十九夜の月は船頭に輝き 一点の霞〓なし。遙に馬関の灯火を眺め、真の景色いう〓〓ありなし あヽ この月と水何日迄清くして余等の旅をして心美しくさめよ 船中にて夜を明す。

五日 二十日晴 二十日

前四時 徳山上陸 停車場にて洗面し少時休息 五時三十分の京都行急行に投じ 八時二十三分 広島を過ぎ 次いで尾道(十時九分) 岡山(后一時) 姫路(二時十五)を打ち過ぎ明石舞子須磨(四時)を窓中に眺め、四時四十九 神戸着。直ちに乗替なして 車上、大坂を見ていし七時三十八分 京都着 七條通 えびすや旅館に宿す

六日 二十一日雨

八時起床。案内者一人を雇うて京都名所を一見せんと 先ず東本願寺に詣ず。其構造の大なるに一驚を喫したり。次に豊国神社、方広寺(鐘の) 京の大仏を見 京都博物館に入り 三十三間堂に詣り 三万三千三百三十三体の〓〓 千一体の尊像を拝し、妙法院(?)に転し 秀吉公の乗用籠 古図、古器具、見返り松を見、遥かに阿弥陀ケ峯を拝し、裏道伝い大谷に出て、案内者に お俊伝兵衛の墓を教えらる。 少時して、音羽の瀧に出ず 音羽の名の寄って来る山賊の娘 角士音羽山の話を聞き 瀧に汗を出入れ 少時 休息の后 清水寺に詣す。宮〓 八坂の塔を眼下に見去り 知恩院に向う。 道に泉州の刃物屋と説かれし小刀一本を購う。雨漸く烈しく十二時に至りては実に非常の降雨となり歩行もなり難し 或る店に寄り中食す 知恩院に到る 降雨益々甚だしく少時茲に休う 左甚五郎の鴬張り 〓〓間、三代将軍手植の松。〓〓の古屏風画 千畳敷、甚五郎の傘、を見る。 三時半宿に帰る 雨を押して停車場に到り、后八時発の新橋直行に乗り込む(此時列車遅れて九時半発す) 大垣岐阜を過ぎ(本年は最早安心なり先年(廿九)我々の上京する時は此の近辺非常の洪水にして甚だ難儀せり)と深田氏は語りつつ間も無く一ノ宮に到 駅員は呼ばわりぬ「岡崎以東洪水の為め汽車は不通 東行の客は名古屋にて宿泊せられて方宜しからん」と〓〓一声 吾人の耳を襲いぬ 嗚呼しなもらたりと六人の若武者乃ち名古屋にて下車す。時に前二時過ぎとはなりぬ。停車場前名古館に泊す。

七日 晴 旧二十二日 

九時起床 二階の八畳六畳続きに転室す 名古屋の名城を見んとて電気鉄道に乗し衛戍〓 余 騎兵隊第三連隊に知〓吉田信輝少尉を訪う 五名を紹し来れり 云う則ち六名は吉田に供して馬癖を巡見し将校集会所にて西洋料理を振舞れ 薄暮 鯱鉾の夕陽に映ずる頃宿に帰る 其頃、鳳凰一行 常陸山等の力士名古屋を興行し居れり

八日 晴 旧二十三日

汽車まだ通行せず 乃ち議決して熱田宮に詣でる 熱田は名古屋より一里余 汽車馬車の便あり 汽車に乗り九時出発す。 神殿を拝見し神馬、七本楠、景清の開かずの門等を見、海岸を巡り又汽車(中等)にて十二時帰名す。停車場に掲示あり。曰く、岡崎豊橋間全通、興津蒲原間・小山山北間未だ不通〓 此処に於て会議は又初りぬ 今夜出発して沼津迄行かん 明朝出発せんと ついに此夜出発と決し 后八時半頃 名古屋駅を発し 静岡に向う 浜松に至りて、此の列車

推薦選挙の理念と実際2007年05月22日 19:01

昭和17年四月下旬執筆(大阪都市協会の依頼により)  昨年 衆議改選を延期 随って市議選も延期となりし為、本年は全国にて九十余市の改選行わる

 ”大大阪”誌 (都市協会発行)第18巻第5号、昭和17年5月号所載

  推薦選挙の理念と実際      本年ならば実現必ず可能          高原  操

  (一)要は反省と熟慮断行  我が国に自治制の布かれて、すでに五十有余年の長きに及んでいるのであるが、帝都の東京を初め、全国の大中小の都市、町村ほとんど悉くが、其の事績において、進歩せずして退歩している。その過去半世紀のあいだ日清役、日露役を経て、我が皇軍の威武は、目覚しき偉功を樹て、一躍世界列強の班に伍することとなり、第1次欧州大戦後には一等国の列に入り……さらに今次の大東亜戦となりては、其の戦果の迅速さと偉大さとにおいて、古今東西の戦史に比類なき大功績を挙げつつあり……しかるに顧みて内に政治上の成果が逆比例に萎靡不振、否、退転逆行の状態に在るは如何にしても解しがたきではないか。……西欧の諺には『戦争に勝ち得るものは何事をも為し得る』というに、戦果比類なき好成績の国民にして、行政上自治制の成績に落第点を付けなければならぬとあっては、現代国民は祖先に対しても子孫に対しても申訳がない……ということになる。  我輩が、市政の革新を行うに当たりて、市会改造のため推薦選挙を行うべしと主張する動機は、ここから発してこれを実際に吾が居住地なる池田市に施して、覗ったとうり、理想選挙を標榜して理想百パーセントの実現を得た。要は熟慮断行である。革新は決して出来ない相談でない。

  (二)今年行えば目的を達する  理想を描いて、狙ったとうり、これを実現することは、なかなかもって容易の業ではない。が今年ならば何処で行っても出来ると信じている。……その理由は――(一)時局が超非常時なること、……大東亜戦の進行中なること、……皇軍が『東亜共栄圏』の理想実現に着々その功を奏しつつあること、(二)外に向かって未曾有の国力発展を為しつつある此の際に、内政が旧態依然のままでは相済まぬ、何とかせんでは不可ないではないか――という気分が多数人の胸中に湧いている。……この二つの事由によりて、本年これを行うならば必ず出来る。現に曩に池田市において理想通り成功し、近くは本年三月、徳島市において同じ理念を掲げて、市会の革新に推薦選挙を行い、大成功を遂げたのである。……但しそのためには準備が必要である。啓蒙運動が行き渡らなければならぬ。良市民の潜在熱意を揺り起こさなければならぬ。

  (三)啓蒙運動と候補選基準  第1次基礎的工作たる啓蒙運動に、十分なる準備を要する。市民の各層、各団体に向かって解り易く自治制度の根本義を説明して遣るの熱心と努力とを続けなければならぬ。――つぎに推薦母体の結成だが、この母体構成に非難のない純潔有徳の人々を以てせねばならぬ。……而してのち被推薦候補の選定に最も深甚の注意を加え的確条件を規約して純良の人物を、立派な現役要人を、――即ち『あの人ならば』と万人の納得する人物を挙げること――この点が最重要点なれども衆議院議員の場合とは異なり、有徳者を主要目標として特別の智識や弁舌やを必要とせぬ。否、むしろ殊に法律の智識または才弁など無い方が却って好いということを以て選べばさほどむずかしい事はないのである。後に具体的に詳述するが日々繁忙な職業を有して、それぞれの職場に勤務せる人々にてよいのである。……標準は過去に道徳上の非難なき人、『あの人なら』私欲のために公益を害せざる保険の付けらるる人……というのが要点である。ゆえに実際にあたってみて、左ほど難事でもないのである。……被推薦候補の承諾を得るに苦心を要すること勿論だが、これはここに詳述の必要もあるまい。

  (四)自治制創定の由来  市民各階層に対する啓蒙運動のためには、先ずもって我国に自治制の創定された(明治二十一年四月)当時の内務大臣山縣有朋公が、自ら執筆されている『徴兵制度および自治制度確立の沿革』(大正八年、国家学会編 明治憲政経済史論)の一篇中に詳しく示されてある『兵役の義務は即ち護国の権利』なること、而して国会に先ち憲法よりも前に、自治制を布きし事由は、  『……分権のしゅぎにより行政事務を地方に分任し、国民をして公同の事務を負担せしめ、以て自治の実を全からしめんとするには、技術専門の職、若しくは常識として任ずべき職務を除くの外、概ね地方人民をして名誉のため無給にして其職を執らしむるを要す。而して之を担任するは其地方人民の義務と為す。是れ国民たるもの国に尽すの本務にして壮丁の兵役に服すると原則を同くし、さらに一歩を進むるものなり。……』  とある。即ち『兵役と同じく国に尽す義務』なりというその要諦を、分かり易く解説し、更に地方自治制度は政党政派に関係なく、一定地域に独立したる意思を以て公共の事務を行うべき旨を諭し、憲法の実施にさきだち、帝国議会の開始に先立ち(明治二十二年末)左の如き訓示すなわち  『……茲に最も注意を要するところのものは、此の艱危の時に方り宜しく屹然として中流の砥柱たるべきのみならず、亦宜しく人民のために適当の標準を示し、其偏頗を抑え、向う所を謬らざらしめんことを勉むべきに在り。蓋し行政は、至尊の大権委任に依るものにして、中外その局に当たるものは宜しく各種政党の外に立ち引援附比の習を去り、専ら公正の方向を取り以て職任の重きに對うべきなり、(中略)……今若し之に反して、却りて中央の政論に熱心し、政党の試験所となり、一場の争端を開くことあらば、其の勢は延いて小民に及ぼし、怨讐相結び、狂暴これに乗じ、春風和気子を育し孫を長ずるの地は、転じて喧囂紛争の衢と化り、家を富まし国を利するの行は得て起すべからず、……之を各国の歴史に徴するに古今政体変遷の間、最も恐るべく、最も戒むべきの事情なりとす。……是れ畢竟、中央政事と地方施治とを混淆するの謬りの致す所に因らずんばあらず……』  とあるに拘らず、五十年間もこれを忘れたるものの如く、制定当時の親心を無視して、今日、腐敗堕落の原因を作れることを恥じよと説明し、自治制度の根本義は、我が『兵役の義務』即ち『護国の権利』と同じく、自治行政に参画するは『国に尽すの義務』である。ゆえに勝手に放棄したり、無関心であったり、たかみの見物はこれをゆるさざる国民たるものの責務である。……旨を詳述するを必要とする。

  (五)兵役の義務と同一の責務  我輩は三十年来、普通選挙の理拠を説明するに方りても、また自治制度の根本大儀を敷衍するに際しても、我が肇国の始めより、君民同冶、挙国参政、――兵農一致、国民皆兵――が我国体政体の真髄であって、ただ法律の形態とか条文の綴方とかを西洋流の仕組に改装したるに過ぎざる旨を述べ、特に市町村制度の理念を陳ぶるときには、創定者たる山縣公の叙上の説明を引用して、自治体の議員を選挙するの場合、その選挙人も被選挙人も徴兵令の制定精神と全く同一に、『国に尽すの義務』でなければならぬと説きて、選挙に際し投票するは唯一個の与えられたる権利だとのみ心得て、これを放棄して平気に構えるは、以ての外の心得違いなりとして戒めている。……もとより一面、選挙権というからには『権利』に相違ないが、他の一面では、同時に『義務』である。国に尽すの本務である。自己の住む自治領域の公益を擁護する権利であって、同時に所属自治体に対して尽さねばならぬ『義務』なのである。……と説くことが、今日数百万の我が子弟皇軍招聘の出でて聖戦のため偉功を奏しつつある際、最も有効と信ずる。

  (六)啓蒙運動と推薦選挙  ここで再び推薦選挙の本論に立戻る。抑も自治制の由来と根本義とが叙上の如くであるに拘らず、選挙界の数十年にわたる情弊は、これを忘れたるものの如く、或いは全くこれを知らざるものの如く、これを捨てて顧みざるがゆえに、各都市の市会は東京市を初め、いずれを見ても腐敗を累ねて、今や如何ともすべからざる情態に陥り、幾度選挙しても優良純真の士は議員に出でずして、劣悪なる所謂職業議員と称する徒輩の跳梁跋扈するところとなっている。――そのために財政は窮乏し、学童養育のごときは怠慢に付され、下水道の完備は後回しとなりて、伝染病は年々その跡を絶たない、――神聖なるべき市会議場は派閥相闘のため毎に喧々囂々の巷と化し……最も警戒すべき有害無用の政党、乃至は中央政派との連絡機関化して、……総選挙ごとにその投票仲買ブローカ営業人を増すのみの状態に立到ったのである。これが原因は居住者中の知識階級と呼ばれる者は多く吾不関焉をきめ込みて、全く無関心。それに乗じて所謂職業議員なるもの、多年の情実、因縁、或いは使役の提供をもって投票を集め、当選の後ちこれを数倍数十倍にして取戻すの営業組織とまでなせるもの少なくないがゆえに、従来通りの選挙を、……啓蒙運動なしに、……何遍繰り返しても、従来通りの議員が当選するのが当然である。――現行法律のもとでは、これをどうする事も出来ない。――偶々善良有能の人格者が立候補して見ても、競争すれば、必ず投票数で敗ける。……選挙有権者の多数者が、自治体の本義を理解しないがために、結局におきて公益を無視する者を蔓こらせるのである。……だから多数市民に対する真の啓蒙運動……啓蒙という言葉が悪ければ、市民の成人教育を行うのほかに途がない。――ところが啓蒙にも成人教育にも、これを成果あらしむには指導者の熱心と大努力とを必要とする。此の点なかなかの難事で長き歳月をかけなければ、完全に啓発は目的を達しないが、……啓蒙運動目的を達し、市民の教養普く成就し、各人の自由意思による投票によりて……情実、因縁、買収を排除し、札付職業議員の再選を全部駆除し得るなら……これこそ最上最良の選挙である。我輩は元よりこれを望むものであるが、――右のごとくこれには長い歳月を要し、果たして旨くゆくかどうか、またその目的に適う模範的の指導者が需めて各市に得られるかどうか。恐らく難中の至難事であろう。……だから、この定石的正攻法は、急場の間に合わぬ。――そこで応急の対症療法として、……病はすでに膏盲に入り、膿汁の迸出を見るに到っているのであるから、……茲に已むなく、外科的切開治療を要する。――ここに謂う『推薦選挙』は、即ち今日の市政並びに町村悪質病に対する外科的治療にほかならないのである。――全体の強健快復を待って居られないが故に、この治療法を行わなければならぬ。而して一旦健康を取り戻せば、次には摂生の要をも感ずるであろうし、従来の長き悪質疾婁に復た再び冒されることを恐れるようにもなり、用心警戒もするようになるからである。

  (七)外科的手術の最適最好期  理論は上陳のごとく、五十年来の慢性悪質自治体病の救治に、外科的施術の切開法『推薦選挙』をもってせよ!……というのである。――而して本年は、それが施術に最好最適季である。――大東亜戦の真只中であること自治公民権の由来は、兵役の義務と同一理念……であって、倶に『護国の権利』であり同時に国民たるものの『祖国に対する義務』である、『自己居住地に尽す責務』である、放棄することの許されざる責任であるというのである。……以下近く池田市と徳島市における見事奏功の実績につきて述べてみよう。

  (八)実現せる池田市の実例  池田市においても徳島市においても、所謂速成啓蒙運動に先ずもって力を注ぎ、基礎工作に骨を折った。……各種団体有力者の懇談会から初め、婦人会に呼びかけ、青年団に指導者が出かけて自治制の本義を説き、各町内毎に市政に関する座談会を催して、……膝つき合わせて従来通りでは、当然に従来通りの議員しか出ないが、これを改善する方法はどうしたら善いだろうか、……という事になる。ココに自由投票選挙をもってせずして『推薦選挙』をもって、思切って一応、市会の大掃除を断行するの方法あることを説きて、次からつぎに、『それじゃあ、推薦選挙で、どうか善くなして頂きましょう』という機運を、全市各階層のあいだに醸成せしめることが出来た。――この基礎工事が広く且つ周密に行渡ることが肝腎である。……池田市、徳島市においては官民有力者の努力と熱心によりて、この速教育を成し遂げた。……つぎに推薦母体の結成である。――これに非難のなき人々数十名、池田市の場合は有志団より十名と町会長より代表十名と合わせて二十名で構成した。――この人選を謬まらないようにすること、また基礎工作の第二要件である。……衆望あり熱意ある推薦母体の結成ができれば、次ぎが被推薦候補者の選定に取りかへるのである。

  (九)神明に誓って私心を去る  推薦選挙は、ここから本舞台に入る。選挙期日の公示と共に、直ちに所定の議員数だけの候補者を、ぴったりと揃えて公表するのである。――がここまでの家庭には実際に当たって見ると容易ならぬ(イ)苦心と(ロ)熟慮と(ハ)断行とを要する。……推薦母体の結成式は、氏神伊居太神社の大前に、二十人が整列して一同宣誓文を声たかだかに斉唱し、一切過去の邪念を去りて、正心誠意、公のために私をさしはさまざる旨を誓うたのであったが、人間の本性は元『善』にして『正』なるものであるから、自然に邪念から遠のくことが出来るのである。――徳島でも同じ形式を採った。――母体結成式が済むと共に、時を移さず被推薦候補の選定にとり掛った。有志団側からは所定の議員数三十名を用意して吾輩これを予め持参して居り、町会長代表側からは全町会長に諮りて地域的に候補を選んで約そ百五十余名の第一次候補者を挙げて来ていた。……そこで第一次候補総数は百八十余名の多数にのぼる。……筆者は母体全員の推薦によりて推薦母体の委員長、兼、愛市同盟会長に挙げられ、当日また被推薦議員三十名の選抜確定評議会の座長に推されたので、即ち神前を去って直ちに社務所に入り、母体構成員二十名の人々と倶に、這の大役を承ったのである。……二月初旬の余寒厳しき朝であった。……善は急げというわけで早速に人選にかかった、……がしかし選定の基準をきめて置かぬと議論百出して面倒と思ったから、第一次候補をここに呈出して貰う前に、まず第一に 前議員は今回遠慮して採用せざること 第二 人物を本位とする故に必ずしも地域的ならざること 第三 有智の仁よりも有徳の人を採ること 第四 老年よりも成るべく若き人を選ぶこと ……尚 具体的に今回池田市では町制時代から五十三年間一度も大掃除を行っていないから、ずいぶん埃がひどくたまっている、大清潔法を行うときは、旧い畳も新しい畳も一応戸外に持出すを例とする。今回は池田市の大掃除だから、前議員は善悪にかかわらず一人残らず被推薦候補から除外するが如何……と諮ったところ、皆よろしい、……解散の汚名を蒙った市会の後始末なれば、直接間接、前議員ことごとくに責任がある、これを除くは当然だと一決した……爾後の三条件に就いても異論はなかった。――此に於いて、いよいよ百八十余名のうちから一名一名と読みあげ各方面よりの批判を聞き、前議員名は真先に除き、叙上四要領に適合する者の高点者を三十名選抜確定するに、朝から夕方まで前後9時間を費やしたのである。……歌や俳句の選をするのですら、百八十を三十に選定することは容易の業でない、況や人選をやである。……紙で方法を書けば数行で足りるが、実際の被推薦者候補を選定するのには非常の苦心が払われるのである。――もし少しでも一人でもこれを謬まり、私心を挟むものありて、いかがわし人物が入選していると総崩れとなる虞れがある。――これには数ヶ市町で実例を示している。……三十名が三十名悉く、『あの仁なら』『非難すべき点なし』と万人が納得する人々を選び出さなければならぬからである。幸いに池田市では、文字通り邪念なき選定ができ、理想通り1名の自由立候補もなく、無投票で明朗市会の建設ができた。

  (十)愛市同盟の目的完遂  池田市の実例では、以上の人選が、まことに善く旨く行われた。一々面倒臭い議論もなく、有志団側からの候補と町会長代表側からの候補と殆んど全く一致することを得た。……徳島市での方法は池田市でのそれと少しく異なり、三百五十有余の町会町会毎に、先ず二名づつの推薦第一母体を作る構成員を選挙させ、ここに約七百有余名の第一次推薦母体が結成され、このうちから更に互選によって数十名の代表を推薦選定し、別に徳島市翼賛市政建設会という有力なる各種団体代表を網羅せる愛市連盟が成立していて、これと相連結して、全市各区にわかり地域的に予選したる第一次候補者を持寄り、つづいて池田市の場合と同じく一同神社に参集のうえ、過去に泥まず一切の私心を去りて、市議三十六名を全部推薦をもって選挙するとの大願を誓い、所定の確定議員後者を選抜したのであった。……池田市では一人の自由立候者もなく、全部無投票で明朗市会再建の目的を達した。が徳島市では一人ただ一名の自由立候補があり、これが当選はしたが、数のうえから三十六分の一で三十五対一の圧倒的好成績を挙げ得たのである。もちろん具体的人選を為すと同時に、法定の手続を了え、愛市同盟は政治結社として届出で、これより法律上の選挙運動となる。

  (十一)今年行えば必ず達成できる  これを要するに大東亜戦争の日々大戦果を挙げつつ進捗中なる今年、内政が殊に地方自治行政が、従来通りで不可なるは何人も異存のないところであろう。然らば即ち、選挙界のみが従来のままで善いという訳は断じてないのである。従来のまま各市民が覚醒しなければ必ず従来通り職業議員の跋扈を見て、市政町村政の建て直しは出来ない。……而もその建て直しに本年の改選期を措いてはまたと機会は廻って来ないのである。……今年は絶好の機会である。皇軍将士は、陸に海に、姓名を犠牲にして皇国発展のために全力を集注し、未曾有の戦績を挙げつつあるではないか。……しかるに銃後のわれわれ内治に護国の重き責務を荷うものが、従来通りの選挙を繰返して、更新するの途を講ぜざるちじゅが、何の顔あって出征将士の凱旋にまみゆることが出来ようぞ。……吾輩は特に此の点を高調したい。……しかして我国自治制度創定の由来は、兵役の義務と其の原則を一にし其理念を均うし、更に一歩を進めたるものなれば、それぞれ日本人にして真の日本精神に還元すれば、理想的明朗市会を顕現することは敢て難事ではない筈である。――本年これを行えば必ず成就する。――熱意を有する士、各市に一両名ずつ現れ推薦選挙を熟考断行すれば必ず理想通り目的を達し得ることを、吾輩は自己の経験に徴して、信じて疑わざるものである。

以上