蟹のつぶやき kanikani

花子とアン2014年04月05日 00:14

どうだろうか、と思いながら見ていた「ごちそうさん」も、高視聴率のままに大団円。週初めからは「花子とアン」が始まり、1週間が経とうとしている。さて、好調の朝ドラの視聴率を引き継げるだろうか。 あの「おしん」の放映が始まったのが1983年4月4日だったのだそうだ。もう31年も前のことになる。1年間通しの放送の平均視聴率は52.6%。ビデオリサーチの統計史上、テレビドラマの最高視聴率記録となっているのだそうだ。橋田寿賀子の脚本、子役の小林綾子の好演、田中裕子、音羽信子と主役3人のリレーだったが、お化けほどの人気であった。 一代記ものでのトップランナーとなる子役が、どこまで人気の助走を務められるか、というのがカギにもなるのだろう。「花子とアン」の子供時代を演じるのは山田望叶と書いて、「もちか」と読ませる女の子。懸命でいじらしいほどであるが、話の筋がどうだろう。ハナが高熱を出して、長らくの行商から父親が帰宅した場面。父親から筆を受け取り、かなで辞世を綴り、死を覚悟する、という場面が出てきたのだが、年端のいかない子に、これはなんでも脚本のやり過ぎではないんだろうか。どうも合点がいかない。望叶ちゃんは2週分を務め、吉高由里子が東洋英和であるミッションスクールの生徒として登場する予定らしい。役者は2人とも左利きなのだが、モデルの村岡花子さんは右利きなので、右手を使わなければならず、これが苦労、とは放映直前のブログでの告白。さて、どうなるか。 http://www.nhk.or.jp/hanako/

「2・28」事件2014年02月28日 22:14

2月が終わる。「2・28」という事件があった。台湾の話。 日本の「2・26」は知っていても、「2・28」は馴染みがないだろう。 1947年(昭和22年)の2月28日に、台湾・台北で起こり、全土に広がった国民政府に対する大規模な暴動で、一時は暴動側が全土を制圧するかにみえたが、中国本土から駆けつけた国民政府軍に蹴散らされ、台湾人が無差別発砲や処刑で殺戮された。その数は、いまだに確定しないものの、2万8000人と言われている。そして、布かれた戒厳令は、なんと40年後の1987年までも続き、白色テロと呼ばれる恐怖政治によって、多くの台湾人が投獄、処刑されてきた。 映画好きの人なら、1989年に公開された侯孝賢監督の映画『悲情城市』で、この事件を知ったひともいるかもしれない。 終戦時まで日本国籍だった台湾の人たちを「本省人」、連合国軍の委託を受けて日本軍の武装解除を行うために大陸から進駐し、その後、中共軍との戦に敗れて「遷都」する蒋介石率いる中国国民党政府の官僚や軍人は「外省人」と呼ばれる。当初は、少なからぬ本省人が台湾の「祖国復帰」を喜んだというが、やがて彼らの腐敗の凄まじさに驚き、失望、「狗去豬來」=犬〔日本人〕はうるさくても役に立つが、豚〔国民党〕はただ貪り食うのみ=と揶揄したという。 事件の発端は、前日の2月27日、ヤミのたばこを売っていた本省人の女性に取締の役人が暴行を加えたこと。本省人たちが28日、市庁舎へ抗議のデモをしたところ、憲兵隊が発砲、事件は全土に広がった、という。この事件については、「本省人」として初めて李登輝が総統になった1988年になるまで語ることが許されなかった。 この「2・28」、今から40数年前の学生時代に、一緒に下宿をしていた文学部の学生A君がある夜、「2・28事件って、知ってますか?」と、声を潜めて語りかけてきて、初めて知った。台湾から留学していた学生から聞いたのだろう。日本でも大っぴらに話ができなかったのだと思われる。とはいっても、今では「金儲けする本」の筆者や実業家として知られている邱永漢は事件当時の学生運動のリーダーだった。当局の眼を掻い潜って、香港を経由して日本に逃亡した。彼は外国人初の直木賞受賞作家で、当時の日本に潜んだ「独立党」の小説なども書いている(今、彼の小説を読むことは簡単ではないのだが)。 観光客として出かけることはあっても、そんな台湾の近現代の歴史を、日本から出かける観光客の多くは知らない。

国家と宗教 宗教から見る近現代日本2009年02月11日 18:24

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明治の初め、「廃仏毀釈」といい「神仏分離」の動きがあった。それまで共存していた神社と寺が、分離され、寺の仏の首が切られたり、寺宝級の美術品が流出した。そう、歴史の教科書で習った。しかし、それ以上には、何故、明治維新のこの時期で、どのような経過を辿ったのか、ほとんど教えられることはなかったし、なかなか良書にもめぐり合えなかった。

本書は京都仏教会監修、洗建・田中滋編。上下巻の2冊。下巻は「新憲法体制から新自由主義体制へ」とあり、時代区分を含めて上下巻の構成がはっきりしている。京都市の古都保存協力税条例をめぐって、拝観拒否の旗を振った仏教会が、一般市民はさることながら、宗教者の間ですら「信教の自由」と「政教分離」の意義に対する理解が乏しいことに驚いて研究会を重ねてきた成果であるらしい。いわゆる「拝観寺院」が生まれた歴史でもあるらしい。


私の興味に答えてくれるのが今回の上巻の部分。ことに第1部「国家神道」形成期の葛藤が面白かった。その構成を目次から拾う――。

1. 国家神道の形成                         洗 建
2. 近代国家と仏教                      末木文美士
3. 神仏分離と文化破壊 -修験宗の現代的悲喜                    井戸 聡
4. 国家の憲法と宗教団体の憲法 -本願寺派寺法・宗制を素材に               平野 武
5. 井上円了と哲学宗 -近代日本のユートピア的愛国主義           岡田 正彦
6. 近代日本における政教分離の解釈と受容      小原 克博
7. 国家神道はどのようにして国民生活を形づくつたのか?-明治後期の天皇崇敬・国体思想・神社神道      島薗 進
 
「国家神道の形成」の「はじめに」の書き出しが、非常に腑に落ちた。――(40p)

日本の近代は明治維新に始まる。「尊王攘夷」をスローガンに進められた倒幕運動は、黒船の来航に屈して開国した幕府への怒りから始まった。その意味では攘夷が目的であり、尊王は倒幕のために必要な大義にすぎなかったはずである。しかし、政権を奪取すると攘夷は放棄して文明開化政策に路線転換し、新政府には尊王だけが継承された。幕末、尊王思想にはいくつかの流れがあったが、明治新政権と結びついたのは、復古神道の流れを引く国学運動の尊王思想であった。新政権の軍事的中心は薩長であったが、尊王イデオロギーの担い手としては、津和野藩を中心とする国学者たちが重要な役割を果たし、それが近代日本の宗教政策に大きな影響をもたらすことになった。明治政府は実際には薩長が実験を握っていたのであるが、それまでの武家政権のように天皇から統治権を委託されるという形を取らず、建前としては「天皇親政」を謳っていた。そこで天皇の政治とはどのような政治なのかをまず明らかにしなければならなかった。明治元年に出された「祭政一致の布告」がそれであり、起草者は津和野藩士で国学者の福羽美静であったといわれる。

《祭政一致ノ布告》(布告第153号、明治元年3月13日)
此度、王政復古、神武創業ノ始ニ被為基、諸事御一新、祭政一致ノ御制度ニ御回復被遊候ニ付テハ、先第一神祇官再興御造立ノ上、追々諸祭奠モ可被為興儀、被仰出候。依此旨五畿七道諸国ニ布告シ、往古二立返リ、諸家執行配下ノ儀ハ被止、普ク天下ノ諸神社・神主・禰宜・祝・神部ニ至迄、向後、右神祇官付属ニ被仰渡間、官位ヲ初、諸事万端同官ヘ願立候様、可相心得候事。

――つまり、明治維新政府は「天皇の政治」を神話上の初代天皇とされる「神武天皇の政治に帰る」こととしたわけだ。神を祭り、神に導かれて政治を行う「祭政一致」の政治である、と。そこで平安時代の制度を範として、天皇の下に神祇官と太政官という二大官庁を置き、神祇官が神祀りを、太政官は世俗の政治を担当する、ことにして神祇官を再興し、全国の神社は私的な運営を廃して、神祇官直属の施設として、神職は官吏扱いする、というものだ。

こうして「神道国教化」の時代が明治元年から4年くらいの時期。最初に行われたのが「神仏分離」「神仏判然」政策。
神道はわが国固有のアニミズム的、シャーマニズム的な自然発生的宗教であったが、仏教が移入されると当然の結果として神仏習合が進み、特に平安期に生まれた本地垂迹説がひろく受け入れられて、神はその本地である仏が顕現したものであると信じられるようになっていた。幕末には神社は存続していても、それは仏教の一部であったのであり、独立した神道という宗教は存在していなかった。その意味では儒仏以前の純粋神道を構想した復古神道、国学運動は、当時は一部の人々が信じる新宗教に過ぎなかったのであるが、これが国家権力と結び付いたので、千年に及ぶ日本宗教の伝統に大変革がもたらされることになった。祭政一致のためには、復古神道の理念に合致する神社を新たに創出する必要があり、世に廃仏毀釈といわれた過激な方法で、神社から仏教色を一掃したのである。一括して『神仏判然令』と呼ばれている13の政府命令が出され、国学者や神主などが先導し、動員された村人なども鍬や鎌で武装して神社におしかけ、そこに祀られていた仏像や仏具を破壊された。当時、神社には本地とされる仏像が祀られ、神主は剃髪した僧形でお経を読み、護摩を焚いていた。平家物語に出てくる比叡山の僧侶が朝廷に強訴を掛けるとき、担いできたのは日枝山王の神輿であって仏像ではなかった。大宰府天満宮に伝わる江戸時代の祭り絵巻に描かれているのは、神輿を担ぎ、行列するすべての人々が僧形をしている情景である。秩父神社の倉庫には、江戸時代まで鳥居に掲げられていた「妙見宮」という額が眠っている。これをわずか2年という短期間に一変させたのが、神仏分離政策であったのである。
神社の純化だけでなく、皇室も神道化する必要があるので、皇室からあらゆる仏教行事や施設を一掃した。歴代天皇の位牌を安置していた「お黒戸」は撤去され、皇室とゆかりの深い泉涌寺に移管された。皇室では正月に真言宗の僧侶が参内して正月御修法(みすほ)を執り行うのを手始めに、順次、天台、真言の僧侶が参内して仏式の年中行事を行うのが慣例だったが、これはすべて廃止され(明治3年)、両宗が宗門内でこれらの天皇のための御修法を行うことも禁止された(宗門行事として復活させることが許されたのは、真言宗が明治17年、天台宗は大正9年)。
仏式の施設に代わる神道施設として、いわゆる宮中参殿(宮中に八百万の神々を祀る神殿、歴代天皇霊を祀る皇霊殿、三種の神器を祀る賢所)が建設された(明治4年)。宮中三殿で行う神式の行事を整えるのには時間がかかったが、明治41年の「皇室祭祀令」によって確定された。
一方、キリスト教に対しては徳川時代を引き継ぎ、これを禁圧する政策を採った。キリスト教が解禁されたと誤解した潜伏キリシタン信者が一斉に検挙され、津和野藩など藩によっては拷問を加えるなど、近代日本最初の大規模な宗教弾圧事件が起きた。しかし、これに対してキリスト教を自らの宗教とする欧米諸国の反発を招き、新政府は「信教の自由」という西洋の理念に直面させられることになり、困惑した明治政府は明治6年、キリスト教禁止は周知のことであるからとの理由で、禁制の高札を撤去し、以降事実上キリスト教の活動が黙認されることになった。
「神仏判然令」で行き過ぎがあることには「廃仏にあらず」など通達が出るが、一方、太政官は近代化に欠かせぬ措置として「社寺領上知令」を出して、寺社の領土を取り上げた。それは仏教の抑圧が目的ではなかったが、領民の年貢を経済の基盤としていた主として天台、真言、臨済の大寺院に経済的な大打撃を与えた。政府はこれに対する金銭的補償の約束をしたが、実際には財政難を理由に実行されなかった。ここから拝観料をとるいわゆる「観光寺院」が誕生、さらに明治6年頃からの地租改正も仏教には大打撃だった。所有権の証明が困難な境内地などが広範に国家に没収され、官有地に編入された。

ついで「大教宣布運動――神仏合同布教」(明治5年~8年)
神祇官による神道的国民教化は実際には何の成果も上げられず、一方で仏教をそのまま放置すればキリスト教が浸透化することは避けられず、そうなれば共和制の議論も出て天皇制が揺らぐ恐れがある、と太政官のもとに教部省(明治5‐10年)を儲け、全国の僧侶・神職(最盛期には落語家や講談師も)を教導職に任用して国民教化に当たらせることとした。
そうこうしているうちに「信仰の自由」をいう日本人が出てくる。一人は後の文部大臣森有礼であり、当時駐米外交官を務めていた。もう一人は宗教界を代表して岩倉訪欧視察団に加わっていた真宗の島地黙雷。彼の主張――。
「三条の教則は政教を混同する過ちを犯している。政治は人が行うもので外面の行為のみを規制する。それは国によって違いがあり、適用される範囲も国内だけである。宗教は神仏にようるもので人の内心に関わる。そこには国境はない。三条の教則で言う『敬神』は宗教であり、『愛国』は政治であるのにこれを混同している。天理人道というのは、宗教信仰の結果として生ずる道徳である。それは徳の高い宗教者が説いてはじめて民心が感服し、その結果を得ることができるのであり、結果だけを説いても人を信服されることは出来ない。尊王というのは国体であり、いまさら口にすべきことではなく、朝廷の命令を遵守させるというのは専制君主のやり方である。そのようなやり方では衆論を戦わせるうちに、どんな失誤が出るかも知れず畏れ多いことである。真宗はこのような間違った運動に参加できないので、大教院から分離して仏教に基づく独自の教化をする」(明治5年)と論じた。明治政府は明治8年、「信教の自由保障の口達」(8年11月27日)を出して、大教宣布運動は事実上終結。

「自由と模索」(明治9年~15年)
「口達」では教導職の任用試験を政府が行っていることについての弁明の形で出されているが「宗教者は単に行政の妨げにならないよう務めるだけでなく、朝旨をよくわきまえ、人民を善導し、天皇の統治を翼賛するのが宗教者としての義務である」との内容。政府が公認した宗教団体に、国家が認める範囲内であれば、それぞれの教義に基づいて自由に教化をすることが出来るように、政府が行政的保護を与えてやる、そのことが「信教の自由だる」というのだ。大日本帝国憲法(明治22年)で「日本臣民の権利として」信教の自由が認められた後も、公認宗教制度は廃止されず、自由は「臣民たるの義務に背かない」範囲に制限されていたので、憲法学の学説上はともかく、実際の行政上はここでしめされた「歪曲された信教の自由」が「日本の信教の自由」であり続けたと言っても良いであろう。

「国家神道体制」(明治15年~)
明治15年に内務省達第1号が発せられる。「自今神官は教導職の兼補を廃し葬儀に関係せさるものとす此旨相達候事」。神職を教導職からはずし、葬儀への関与を禁止することにした。この通達は、神主は「説教」をせず、日本人にとって宗教そのものである「葬儀」にも関与しないから、「神社は宗教ではない」という偽装理論を構築するための措置であった。神社非宗教論は国家神道を支える基本的論理であるから、この通達が国家神道体制の出発点であると考えられている。
この論理は「尊王は国体也、数に非ざる也」として、天皇崇拝を政治とも宗教とも区別した島地黙雷の「三条の教則批判」からヒントを得たものといわれる。皇室祭祀、神社祭祀を宗教と区別するため、祭と政を分離すれば、宗教を一致させても、政と教は分離されるので、信教の自由を侵害しないという理屈である。実際にはこれを分離することはで不可能であり、分離は言葉の上の遊びでしかならない。
現在なお、「神社はいわゆる宗教とは異なる」という人々がいるが、日本人はもともと神、仏を並べ称して信仰対象としてきたのであり、仏は宗教であるが、神は宗教とは異なるなどと考えてきた事実はない。神社は宗教ではない区別する考え方は、此の時期に政府・官僚が作り出したものに過ぎない。
明治二十二年に「大日本帝国憲法」が発布され、その第二十八条で「日本臣民は安寧秩序を妨げず及臣民たるの義務に背かざる限りに於いて信教の自由を有す」と信教の自由の保障が規定されたが、その時には、すでに神社は宗教ではないという基本路線が敷かれており、明治当初からの宗教公認主義もへんこうされていなかってので、その保証はきわめて限定されたものにならざるを得なかった。

いわば読書メモだが、明治時代の混乱の一つとして、良く分からなかった歴史の部分がちょっとわかってきたような気がする。

谷風の風邪2009年01月09日 17:19

谷風の風邪

谷風の風邪


今年はインフルエンザの流行が早いのだという。それも関西から東へ向かって、流行は動いているらしい。通勤電車の中で、右を向いても左を見ても、マスク姿である。そうかといえば、中国で鳥インフルエンザの女性が死亡した、という恐ろし~いニュースも流れている。

そんな中、なぜか1月9日が「風邪の日」なのだそうだ。
いくつかのブログでは「1795(寛政7)年、横綱・谷風梶之介が流感であっけなくこの世を去った。このことから、インフルエンザのことを「谷風」と呼ぶようになった。」とある。

どうやら江戸時代にも、やはり流行り風邪はあったようで、寛政7年にインフルエンザらしきものが流行したという記録があるのだそうだ。ちょうど、その時期、相撲の世界では、第四代の横綱であった谷風が63連勝していて、天下無敵と謳われていた。この谷風が年末に高熱で倒れると、そのまま命を落としてしまった。これ以来、高熱を伴なう風邪を江戸では“谷風”と呼ぶようになった、との解説も聞く。

が、ウィキペディアはもっと穿っている。――正しくは、谷風が「土俵上で儂を倒すことはできない。倒れているのを見たければ儂が風邪にかかった時に来い」と語った時(天明4年頃)に流行っていた流感を「タニカゼ」と呼んだものである。死因となった流感は「御猪狩風」と呼ばれていたが、後に「タニカゼ」と混同されるようになった。

いずれにせよ、タニカゼとハヤリカゼ、というのも、どこか似つかわしい気がしてくるから不思議。
皆様、お気をつけください。


平成2009年01月07日 13:24

平成

平成


20年前のこの朝、呼び出しの電話がかかった。
すぐにNHKのラジオとテレビをチェック。
どうやら、昭和の終焉である。前の年の相撲の秋場所以来、
天皇の脈拍、下血の有無など、そのご容態が報道される日々だった。
「Xデー」という言葉が囁かれ、いつか、そう遠くないその日に
それぞれが備えていたと言ってもよいのだろう。

午前8時前、藤森宮内庁長官が、昭和天皇が亡くなったことを発表。
さらに侍医団が正式に昭和天皇の最期の様子を発表した。

新しい元号「平成」が発表されたのは、閣議の終わった午後2時半過ぎ。
当時の小渕官房長官が色紙に書いた「平成」の文字を示しながら言った。
「只今終了致しました閣議で元号を改める政令が決定され、
第1回臨時閣議後に申しました通り、本日中に公布される予定であります。
新しい元号は、平成であります」

同日、「元号を改める政令」(昭和64年政令第1号)は新天皇の允裁(いんさい)を受けた後、官報号外によって公布され、翌1月8日から施行された。
つまり、「平成」は、天皇の即位は7日に直ちに行われたが、
元号としての始まりは8日から、つまり7日夕刊の見出しでは
「『平成』あすから」とつけられていた。

「平成」の出典は、『史記』五帝本紀の「内平外成(内平かに外成る)」、『書経』大禹謨(偽書)の「地平天成(地平かに天成る)」からで「内外、天地とも平和が達成される」という意味。安岡正篤が考案したとされる。元号に「成」が付くのは初めてである。

この日、「平成」という年号は、いまのようにワープロで一発変換はできなかった。
さっそく「単語・用語の辞書登録」をしたのを記憶している。

NHKの大河ドラマ「天地人」みたいな出典ですな。