蟹のつぶやき kanikani

小江戸川越 歩く会2020年10月04日 18:08

久しぶりに遠出をした。片道1時間半、「小江戸」川越まで。 大学OBGの歩こう会の月例会。横浜中華街から、川越まで電車一本で行けるようになって、便利にはなっている。東横線から副都心線、東武東上線。都心部はすべて地下鉄だから車窓を楽しむ風情はないが、菊名から川越まで60余分、900円弱。 例会には20人余りのシニアたち。駅を降りると、人出にビックリである。GoToの掛け声に、地中から這い出してきた啓蟄のようで、割りに若者が多いところをみると、手近な観光地へのGoToミニ、といったところか。あまり太いとはいえない書割のような街路の歩道から着物姿も交えてあふれそう。 朝方の曇り空から、時折は日が差し、キンモクセイとウナギを焼く香りの中のそぞろ歩き。 「札ノ辻」という辻までバスで、そのあと駅へとバックしながら、やれ菓子屋横丁だ、大正浪漫夢通り、時の鐘、埼玉りそな銀行と、名所や名物を訪ねる。確かに、タイムスリップしたような情景にあふれてはいる。考えようによれば、戦災にも震災にも見舞われることなく無事であった町であるだけにも思える。が、それぞれの駅近くを除けば、ニョキニョキの高層マンションの姿も見えないところが、この町の知恵であったらしい。この町にもマンション建設ラッシュの波が押し寄せようとする時代に、地元からその波から、せっかく残されてきた町の景観などを守りながら、それを前面に出した町づくりをしていこうという運動が起きて、行政が追随した歴史があると知れば、書割にも重みはあるに違いない。 この町には、何度か来ている。が、いつどんな形で来たのか思い出せない。ただ、断片的に写真を撮った場所、風景は現場を歩いていると蘇ってくる。多分、きままな独り歩きしたのだったろう。この日のツアーでなければ、訪れなかったであろう所が2つ。一つは中心部の老舗のお菓子屋さん、亀屋。大学の後輩が、その十何代目かの店の専務をしているという。2007年卒というと30代半か。中学時代に教えてもらったという先生も、このツアーには参加していた。もう一つは、川越大師、喜多院を見学したことか。昔からの川越の歴史の中で、家光・春日局の庇護の姿が形として残っている。手入れされた庭には、ハギの花やヒガンバナが咲き誇っていた。境内の五百羅漢も良かった。まごうことなく500余りの羅漢さんがおわす。一人ひとりの姿、顔の違いも面白かった。

牛に引かれて……2008年09月03日 00:08

牛に引かれて……2008/09/03 00:08

牛に引かれて「善光寺まいり」をして参りました。それにしても、何で「牛」? ――素朴な疑問があった。日常的な意味では「思いがけないことが縁で、また、自身の発意でなくて、他のことに誘われて偶然によい方向に導かれること」(『日本国語大辞典』小学館)らしい。もとはといえば「昔、信濃善光寺近辺に七十にあまる姥ありしが、隣家の牛はなれて、さらしおける布を角に引きかけて、善光寺に駆け込みしを、姥おい行き、初めて霊場なることを知り、度々参詣して後生を願えり。これを、牛に善光寺まいり、といいならはす」そうで、『本当俚諺(ほんちょうりげん)』という説話があり、大阪府藤井寺市小山の善光寺(浄土宗)所蔵『善光寺 曼茶羅 一幅』(桃山時代)には、それを裏付けるような本堂の階段を駆け上がる牛と姥の絵が残されているのだそうだ。 それにしても、不思議といえば不思議なお寺だ。お寺を表す「山号」は普通ひとつで、それを表す「山額」も一つなのだが、ここには4つもある。山号は定額山(じょうがくさん)。東門を定額山善光寺、南門を南命山(なんみょうさん)無量寿寺(むりょうじゅじ)、北門を北空山(ほくくうさん)雲上寺(うんじょうじ)、西門を不捨山(ふしゃさん)浄土寺(じょうどじ)とする。昔から「四門四額」というのだそうだ。 考えてみれば、日本では仏教が今のように諸宗派に分かれる前には、宗派の別なく宿願可能な霊場という位置づけのお寺があったらしい。今でも、善光寺さんは、天台宗と浄土宗の別格本山ともなっていて、天台宗の大勧進と25院、浄土宗の大本願と14坊により運営されているという。大勧進の住職は「御貫主」と呼ばれ、天台宗の名刹から推挙された僧侶が歴代住職を勤めている。大本願はこの手の大寺院には珍しい尼寺で、門跡寺院ではないが代々公家出身者から住職(大本願では「上人」という)を迎えている。現在は鷹司家出身の鷹司誓玉が121世法主となっている。 さて、このお寺、日本仏教の中でももっとも古い時代の仏さんの縁で、大阪と結ばれている。そもそも本尊の阿弥陀さん。もとを質せば、欽明天皇の時代に百済の聖明王から献呈された、日本に齎された最初の仏さんといわれる。が、蘇我氏と物部氏による崇仏廃仏論争の対象となり、捨てられた。その場所が大阪は難波の堀江。落語のネタになっている阿弥陀が池であった。「この仏像を602年(推古天皇10年)頃、本田(本多)善光という者が発見し、出身地である信濃国麻績の里(おみのさと、現在の長野県飯田市座光寺)に持ち帰って祀ったという。その後642年(皇極天皇元年)、阿弥陀如来が善光に命じたところにより現在の長野県長野市に移され、ここに建てられた堂宇が今の善光寺の始まりとされる。」(ウィキペディア)。善行を積んだのではなく、善光さんという人の名前が被せられているのが面白い。 お寺の本堂をお参りした後、裏手に廻ると、いろいろな供養の塔や記念像がある。戦没者の慰霊はわかりやすいが、行方がわからなくなった郵便物の供養などとは、なかなか思いつかない。おまけに乳を搾った牛たちの供養に人形ならぬ「牛形」まである。これも「牛にひかれて」ということなのかもしれないが……。

世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男はなぜ忘れ去られたのか2008年06月15日 23:52

元同僚のF君と庄内を旅していた朝、テレビで「世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男はなぜ忘れ去られたのか」という本が売れている、という話が流れ始めた。長い長い題名の本だ。

酒田の町を初めて訪れるので興味を惹かれ、画面を見続けた。「世界一の映画館、って誰が決めたんだろうね」と映画通のF君。
聞いていると、「世界一」の折り紙をつけたのは、映画評論家の淀長さん事、淀川長治さん。昭和30年代に週刊朝日が取り上げたのだそうだ。「日本一のフランス料理店」の方は、グルメの権化、開高健をはじめ丸谷才一、土門拳たちが保証人だ。

そうか、そんな男がいたのか、と帰京後、本を手にしてみた。

筆者は岡田芳郎。電通のOB。定年の直後に、この本の主人公、佐藤久一の妹と出会い、久一の生涯に魅入られた。
本の内開きの帯に佐藤の生涯の概略が記されている。
1930年1月、山形県酒田市生まれ。50~64年、映画館「グリーン・ハウス」支配人。64年4月、日生劇場勤務のため上京し、同劇場劇場課、食堂課で働く。67年8月、酒田市議会議長を務める父・久吉に乞われて酒田に戻り、以後、「レストラン欅」、「ル・ポトフー(清水屋)」「ル・ポトフー(東急イン)」の支配人を務める。97年1月、食道がんにより没する。享年67。

佐藤の生家は、銘酒「初孫」の蔵元であり、父の定吉は市議会議長をはじめ、酒田の「旦那」。倉庫を改造したダンスホールを、さらに利用した映画館を経営していた。久一が、この映画館を任されたところから「世界一の映画館」の物語が始まる。時に久一、20歳。

閑話休題。Googleでこの長い長い書名を検索すると、6月15日現在で305件がヒットする。これはすごいことだと思う。ベストセラーになったこともあるが、さらに本を読んだ人が、一言書きたくなる本であることの証拠なのだろうから。その書きっぷりも様々で、ブログ、ウエブの書き込みのスタイルの勉強になりそうな気すらした。それらの一つ一つを繰っていくうち、34番目に筆者・岡田氏自身がが講談社BOOK倶楽部というサイトに書いているのにぶつかった。http://shop.kodansha.jp/bc/magazines/...
その最後の部分に、次のようなくだりがある。

私にとって本書『世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男はなぜ忘れ去られたのか』を著わすことは、いくつもの「なぜ」をめぐる旅であった。
 なぜ、久一はグリーン・ハウスを手放したのか。
 なぜ、グリーン・ハウスは今日存在しないのか。
 なぜ、久一はル・ポットフーを追われたのか……。
 佐藤久一が亡くなってから、すでに一〇年の歳月が流れたが、佐藤久一の業績を正しく評価する時が今、訪れようとしているという気がしてならない。そして、その時を迎えたときにこそ、私の物語は完結するはずなのだ。

――まさに、岡田氏が追求しようとした点だ。この本の面白かったのは、もちろんグリーン・ハウスやル・ポトフーにまつわるエピソードの重層もさることながら、この点に尽きるのだと思う。ただ、佐藤久一が死んで10年余り。長い時間のようでいて、遺族を含め関係者にとっては、まだ「すでに一〇年の歳月が流れた」とはなっていないのではないか。なお瘡蓋は癒えていない程度の時間のような気がする。岡田氏も、それは十分に感じながら、配慮しながらの筆運びにならざるを得なかったように思う。仮にドキュメンタリーを避けて、フィクションの装いをとったとしても、結果は同じだったろう。

グリーン・ハウスの時代、5歳年上の美代子を見初め、酒田へ戻って1年後に結婚する。美代子さんについての記述を少し引いてみる。

久一が試写を観るために東京へ出張するとき、美代子は必ずといっていいほど夫に同行した。ある日、久一夫妻の訪問をうけた新外映の東北地区担当セールスマン安部稔は、美代子が事務室内で雨に濡れてしまった久一の靴下を脱がせ、甲斐甲斐しく新しい靴下を履かせている姿を見て驚いた。だらりと足を投げ出し、赤子のようにすべてを美代子に任せている久一の姿に、当時独身だった安部は目を見張り、妻とはここまで夫の面倒をみるものなのか、姉さん女房もいいものだなと感じ入ったのだった。  だが、、久一と美代子の仲睦まじい生活も、そう長くは続かなかった。  過労が祟ったのか、結婚の翌年秋、久一は支配人就任から2年足らずで倒れ、診察の結果、3年前に罹患した結核の再発が判明して、その場で市立酒田病院分院結核病棟に入院することになった。悪いことは重なるもので、身重だった美代子の体調に異変が起きる。急遽手術が行われたが、母体のためには子どもをあきらめざるを得なかった。  このことが、2人の夫婦生活に微妙な影を落とす。  久一は、病が癒えると以前に勝るとも劣らぬ苛烈さで仕事にのめり込み、美代子もなにくれとなく身の回りの世話を焼いたが、久一は、「コップに水入れて持ってこい」「メシはまだか」などとぶっきらぼうに言うばかりで、いかにも面白くなさそうに過ごした。仲睦まじい雰囲気はいつの間にか消え、夫婦の会話もうくなくなっていく。(51-52p)

続いて登場するのが、土門きくという女性である。

土門きくは、駅に降り立つだけでホームにいる人々にどよめきが起こるほどの美貌の持ち主で、きくを知る人たちは、いったい誰がこの美女を射止めるのか、口さがなく噂しあっていたという。だが、当のきくは人々の視線が自分に向けられることが苦痛でならなかった。彼女は自分の美しさを、誇るよりも持て余していたのだ。電話交換手の仕事を選んだのも、この職業なら人目に触れずにすむと思ったからだ。  そんな彼女にとって、人目を気にしなくていい映画館の暗闇は大好きな場所の一つだった。誰からも見られずに、自分を無にしてスクリーンを見つめていると、心のそこからリラックスできる。そして、それと同じ安らぎを、彼女は久一という男に感じるようになっていった。(78ー79p)

そして、久一はきくと一緒に酒田を出る決心をする。1964年4月。東京へ出て、日生劇場に勤めることになる。
ここでは劇場課に配属され、組合委員長に祭り上げられると、食堂課に左遷され、サラリーマンの悲哀をかみ締める。
きくは妊娠したが、死産だった。子どもの骨壷と、ボウリング場への転進の話をもって酒田へ帰った久一に、父親がレストラン経営の新事業の話を持ちかける。それが後半生のフレンチ・レストラン「欅」「ル・ポトフー」へのきっかけとなる。

レストランと料理への執念、ポール・ボキューズとの出会いなどは、この本の最も読みどころだが、話を先に進める。1976年(昭和51)年10月29日、酒田大火の日を迎える。岡田氏は、こう書く。

酒田大火の夜、ル・ポトフーを劇場的空間たらしめようと決意した久一は、改めてル・ポトフーについて考えてみた。(中略)この館のホストが私だとしたら、脇に立つマダムの存在が求められてはいないか。ル・ポトフーという名の館のゲストであり主役である客は、一人のときも、複数のときもある。男ばかりのときも、女ばかりのときも、男女で現れるケースもある。それらすべてのケースでの応対を、男の自分が一人でやることには、無理がありはしないか。主役へのサービスは男女一組で行い、客の人数構成や雰囲気を見て、ホスト、マダムのどちらかが主となってサービスするのが、ベストではないだろうか。(中略)久一は従業員の一人である鈴木新菜に着目した。鈴木新菜は、1976(昭和51年)3月、ル・ポトフーの結婚式部門に採用されたパート社員である。(178ー179p)

と、鈴木新菜という女性が登場する。マダムとして定着し、レストランに華を添えるのだが、下り坂になっていく久一との関係には微妙なものがあったのであろう。岡田氏が久一が残したメモの謎風のものの紹介をしているが、どちらが卵か分からない変な循環の中で新菜さんは久一のレストランを去っていくのだが……。

グリーン・ハウスという映画館を作った先見性、ル・ポトフーというフランス料理店を酒田の優れた文化としたことなどの功績がありながら、なぜ彼に名誉市民・文化功労者になりえなかったのか。酒田大火の火元であったことが尾をひいているのか、料理店で彼が包丁を揮うコックでなかったからなのか……。それらの何れの中にも、一部の真理があり、嘘があるような気もする。同時に、酒田という古さを持った町でのことだけに、岡田氏が外からの目で評価する思い入れと、地元の意識のずれがあるということもあるように思う。そして、そのずれを浮き立たせるものに、久一と女性、中でも、その妻の座にあった人、それ以外の女性との関わり、といったことがあったのではないだろうか。そんな下司の勘繰りをしてしまった。

それにしても、岡田氏の労作には、頭を下げ、「岡田氏の佐藤久一」という人物像だけでも、十分な魅力のある庄内人であったと思いました。

最後に、備忘として目次を記しておこう

プロローグ 酒田大火
第一章 グリーン・ハウス その一 1950~55年
 若き映画館支配人・佐藤久一  / 「おしゃれをして行かないとね」 / イベントの先進性 / 佐藤家と酒田の歴史 / 久一の生い立ち
第二章 グリーン・ハウス その二 1955~64年
 久ちゃんとセールスマンとの丁々発止 /  淀川長治、荻昌弘らの応援 / 「世界一」の映画館 / 恋に落ちて
第三章 東京・日生劇場 1964~67年
 「東洋一」の劇場 / 「あの方と食事がしたいの」 / 食堂課への左遷 / 再び、酒田へ
第四章 レストラン欅 1967~73年
 田舎町のフランス料理店 / 辻静雄、ポール・ボキューズとの出会い / デパートへの出店
第五章 ル・ポットフー(清水屋) 1973~75年
 「おまかせでお願いします」 / 舌を巻いた食通たち
第六章 ル・ポットフー(東急イン) その一 1975~83年
 ジャン・ギャバン / 「列車を止めておけ」 / マダム・鈴木新菜の登場 / 1976年のメニュー / ポール・ボキューズとの再会 / 日本一のメートル・ドテル / 山形産のワイン
第七章 ル・ポットフー(東急イン) その二 1984~93年
 「これは商売じゃない。趣味ですよ」 / 臨時株主総会 / 「ル・ポットフー」との決別
第八章 ふたたび、レストラン欅 1993~97年
 料理、それは思い出・・・・・・ / 「久一さん、恋をしてください」 / ムーンライト・セレナーデ
エピローグ 見果てぬ夢