蟹のつぶやき kanikani

明治31年の日記2007年05月25日 15:47

明治三十一年九月以降

九月一日 旧盆十六日 雨

朝来上京の準備に忙し 宗像八波則吉氏*よりはがき来て四日出発同行せん その前日〓〓連行れと。高田〓常氏外日下部伝造氏〓〓村人の来訪するもの多し 本日は二百十日の厄日なるも風横〓なく雨しとやかに降りて豊年の状現れたり。此年は初夏以来晴雨季を得て炎暑は近年稀なる度合い九十二三度にも達することあり而て時々降雨の為め池河水は充分 稲苗の廻ること人夫農人の喜び一方ならず

*八波 則吉(やつなみ のりよし)  国文学者、国語教育学者。明治9年~昭和28年。福岡県生れ。東京帝大国文科卒。 明治34年金沢の第四高等学校教授。大正5年文部図書館に入り読本の改正に尽力。尋常小学国語読本(ハナハト読本)を編纂。大正9年に熊本の第五高等学校教授となり、多くの著書を残す。

二日 雨  七月十七日

昨日より引続きての降雨 来訪人増し繁し故郷人の親切なる感ずるに余あり 来訪者と冷酒を〓して明朝途出の祝意を表さる 夜に入り余が竹馬の友なりし青年会員一同に冷酒祝肴をすすむ 彼等亦贈物をなして余の行を祝す 后十時 寝に就く 祖母と蚊帳を同くし共に臥す 祖母は当年八十一の高齢 徐に余に語って曰く「操よ、明日は愈々出立になりたるなり 共に臥するも今夜一夜、我は年既に八旬を経ゆ 最早老年 汝が避夏休暇帰省迄は期し難かるべし。彼地に行かば身体に注意し 病気せぬ様 勉業」此言頻に聞く事なれども今度こそは実に涙の出る様、難有くまた悲しき心地せり

三日 午前大雨 旧十八日

朝六時起床 雨止むべくも見えず 村人の余を送るものは降雨をも物ともせず幾人ともなく来りぬ。 直ちに用意して発す 厳父、及び日下部惣吉、同茂、同磯吉の三氏 博多迄送る厚意謝するに辞なし 村端づれ迄送るもの数十 篠つく雨は談話もなし得ざりし 祖母は此雨に洗足 余路おうて村端迄来られ 亦 余に后来の戒を告けらる。 母と妹にも村端迄見送る 老司 にて少時休息。雨 尚やまず。少時 雨止む(和田商店の大通り) 十一時 春吉津田守彦叔の宅に着す。余に直ちに福岡天神丁 松岡氏方に入部山崎の祖母を訪う。東京への言伝物を托せらる 十二時 春吉に帰り 叔父 余が為に饗宴を張らる 本日 同方に女 春女 病気危篤入院治療中なりしが結果如何なりや 〓〓〓に〓〓方桜井兄来る 后三時 以上記載の人々に導かれて駐車場に至る 厳父と兄とは、箱崎の駅にて下車し病院に向う 四時前 福間駅着。腕車を走らせて内殿村八波氏を訪う 同夜 同氏友人の招待により八波氏と共に饗宴に預る 「〓〓か」を見る。田舎の風光(否夜景〓)を看察す 同夜内殿宿す 正午より一天〓〓が如く快晴となる

四日 晴 十九日

前九時起床 八波氏は同地小学校にて氏の為に設けられたる送別かに臨む 在東郷の人 藤井彰三介来て伴うて停車場に行き八波氏を待つ(角屋) 角屋楼上に於て八波氏見送り人に酒肴を振舞う 后一時 福岡駅発 赤間にて法科大学生深田千太郎氏と同車す。四時門司着 松莚旅館に投ず 入浴、少時 理科大学生伊豆直吉、東京〓〓生、伊豆利次氏来り会す。宿主に命じて新橋迄の連続切符を購わしむ(価 五円六十銭 舟二等 車三等) 目下 汽車汽船互いに競争中 汽船は大阪駅に行(門司迄)三等一円と広告せり 待合所に行く 高等商業学校生徒鎌瀬貞蔵氏と会す。氏至りて同行都合六人。 十時参拾分 平和丸にて門司を出帆す 海風徐に来りて海面鏡の如く。十九夜の月は船頭に輝き 一点の霞〓なし。遙に馬関の灯火を眺め、真の景色いう〓〓ありなし あヽ この月と水何日迄清くして余等の旅をして心美しくさめよ 船中にて夜を明す。

五日 二十日晴 二十日

前四時 徳山上陸 停車場にて洗面し少時休息 五時三十分の京都行急行に投じ 八時二十三分 広島を過ぎ 次いで尾道(十時九分) 岡山(后一時) 姫路(二時十五)を打ち過ぎ明石舞子須磨(四時)を窓中に眺め、四時四十九 神戸着。直ちに乗替なして 車上、大坂を見ていし七時三十八分 京都着 七條通 えびすや旅館に宿す

六日 二十一日雨

八時起床。案内者一人を雇うて京都名所を一見せんと 先ず東本願寺に詣ず。其構造の大なるに一驚を喫したり。次に豊国神社、方広寺(鐘の) 京の大仏を見 京都博物館に入り 三十三間堂に詣り 三万三千三百三十三体の〓〓 千一体の尊像を拝し、妙法院(?)に転し 秀吉公の乗用籠 古図、古器具、見返り松を見、遥かに阿弥陀ケ峯を拝し、裏道伝い大谷に出て、案内者に お俊伝兵衛の墓を教えらる。 少時して、音羽の瀧に出ず 音羽の名の寄って来る山賊の娘 角士音羽山の話を聞き 瀧に汗を出入れ 少時 休息の后 清水寺に詣す。宮〓 八坂の塔を眼下に見去り 知恩院に向う。 道に泉州の刃物屋と説かれし小刀一本を購う。雨漸く烈しく十二時に至りては実に非常の降雨となり歩行もなり難し 或る店に寄り中食す 知恩院に到る 降雨益々甚だしく少時茲に休う 左甚五郎の鴬張り 〓〓間、三代将軍手植の松。〓〓の古屏風画 千畳敷、甚五郎の傘、を見る。 三時半宿に帰る 雨を押して停車場に到り、后八時発の新橋直行に乗り込む(此時列車遅れて九時半発す) 大垣岐阜を過ぎ(本年は最早安心なり先年(廿九)我々の上京する時は此の近辺非常の洪水にして甚だ難儀せり)と深田氏は語りつつ間も無く一ノ宮に到 駅員は呼ばわりぬ「岡崎以東洪水の為め汽車は不通 東行の客は名古屋にて宿泊せられて方宜しからん」と〓〓一声 吾人の耳を襲いぬ 嗚呼しなもらたりと六人の若武者乃ち名古屋にて下車す。時に前二時過ぎとはなりぬ。停車場前名古館に泊す。

七日 晴 旧二十二日 

九時起床 二階の八畳六畳続きに転室す 名古屋の名城を見んとて電気鉄道に乗し衛戍〓 余 騎兵隊第三連隊に知〓吉田信輝少尉を訪う 五名を紹し来れり 云う則ち六名は吉田に供して馬癖を巡見し将校集会所にて西洋料理を振舞れ 薄暮 鯱鉾の夕陽に映ずる頃宿に帰る 其頃、鳳凰一行 常陸山等の力士名古屋を興行し居れり

八日 晴 旧二十三日

汽車まだ通行せず 乃ち議決して熱田宮に詣でる 熱田は名古屋より一里余 汽車馬車の便あり 汽車に乗り九時出発す。 神殿を拝見し神馬、七本楠、景清の開かずの門等を見、海岸を巡り又汽車(中等)にて十二時帰名す。停車場に掲示あり。曰く、岡崎豊橋間全通、興津蒲原間・小山山北間未だ不通〓 此処に於て会議は又初りぬ 今夜出発して沼津迄行かん 明朝出発せんと ついに此夜出発と決し 后八時半頃 名古屋駅を発し 静岡に向う 浜松に至りて、此の列車

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