蟹のつぶやき kanikani

形見の直垂(虫干図) 明治の画家・川村清雄2009年01月04日 21:45

形見の直垂(虫干図) 明治の画家・川村清雄

正月の東京国立博物館で、1枚の絵が気になった。本館18室。平成館へ通じる部屋の一番最後の壁に架かっている(1月25日まで)。「近代美術」の部屋の平常展であり、格別のテーマがあるわけではないが、大体は高橋由一など明治初年の画家の油絵がかけられている位置。恐らくこれまでも何回か目にしていると思うのだが、画家の「川村清雄」は馴染みのない名前だった。絵の説明に、川村が幕臣で世話になった勝海舟の死後、勝を偲んで制作され、画面右手に置かれた石膏像が勝海舟を象り、少女が纏っている白衣が、勝の形見の直垂である、といった文句がなければ、それ以上の興味を抱かなかったかもしれない。全体的に不思議な印象のある絵だ。制作年代は勝の死んだ明治32年(1899年)以降44年(1911年)と幅をもった表記になっている。

家に帰って、川村とは誰か、と調べてみた。インターネットで一番初めに登場するのが、三重県立美術館の展覧会の際の説明書。『125の作品・三重県立美術館所蔵品』(1992年発行)を底本にしたもののようだが、引用させてもらう。生没年は1852-1934年。
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嘉永5年東京に生まれ、幼少期から日本画を学び、16歳頃から3年間川上冬崖について西洋画法を学んだ川村清雄は、明治3年徳川宗家の給費留学生として政治法律研究のため渡米するが、まもなく本格的な絵画研究に専念、翌々年パリへ、次いでイタリアに赴き、ヴェネツィアの美術学校に入る。
この《ヴェネツィア風景》は、明治14年に帰国するまでの約8年間にわたるヴェネツィア滞在中に、近郊の農家の庭先を明快な色調とすばやい筆致で描写した川村清雄の数少ない滞欧作品のひとつ。
川村清雄は帰国後私塾を開き、明治22年明治美術会の結成に参加、同会解散後は巴会を主宰。後半期は日本画的、趣味的作風をみせ、天理市にて没。 (森本孝)
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略歴
1852 江戸に生まれる(現・千代田区)。号、時童。少年期に住吉内記に入門、のち赴任する祖父に従い、大阪へ行き、田能村直入についた。江戸へ帰ってから一時期春木南溟に学び、1868年頃には川上冬崖について洋画を学ぶ。
勝海舟の庇護をうけ、1871年徳川宗家の給費留学生として政治法律勉強のために渡米、翌年フランス、ついでイタリアへ赴き、いつしか画家に転じヴェネツィア美術学校に学ぶ。
1881年帰国し、大蔵省印刷局につとめたが、意見対立して間もなく辞職、麹町に画塾を開く。
1889年明治美術会結成に参加、1901年同会解散後は巴会を結成した。
後半期は漆絵に用いる神代杉などに油絵を描き、木目をのこすなど日本画的、趣味的作風をみせている。
1934 天理市にて歿。
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なるほど勝海舟と縁の深い人のようで、勝海舟の「勝海舟江戸開城図」(財団法人東京都歴史文化財団)をはじめ、昨年は国民的アイドルになった(?)天璋院画像(東京・徳川記念財団蔵)などの作品がある。
また、目黒区美術館が05年2月から4月にかけて『「川村清雄」を知っていますか?初公開・加島コレクション展 』として、展覧会を開いていることも分かった。03年に川村清雄と特に深いかかわりをもつ出版人・故加島虎吉(至誠堂)のご家族から寄贈された30余点をはじめ江戸東京博物館所蔵の川村家旧蔵資料などをまじえたものだったという。

さらに『福沢諭吉を描いた絵師―川村清雄伝 』(Keio UP選書) (単行本(ソフトカバー)) 林 えり子 (著)という本も出版されている。
内容(「BOOK」データベースより)幕末から明治への激動の時代に旗本から画家へ転身し、波乱に富んだ人生を送った川村清雄。明治4年に徳川家私費留学生として渡米し、パリを経て、明治8年には王立ベネチア美術学校に学び、欧米で直接画技を習得した最初期の日本人である。清雄は、自身の肌に染み込んだ江戸のこころを失わず画業にはげんだが、列強に追いつけ追いこせの国ではそんな油絵師の存在など芥子粒に等しかった。その実力にも関わらず、時流に乗れず久しく忘れ去られていた。勝海舟など幕末から昭和にかけての重要人物とも親交があり、清雄を通して歴史の新たな一面が提示される。

『三田評論』連載に加筆したものだという。読んでみようと思う。

平成2009年01月07日 13:24

平成

平成


20年前のこの朝、呼び出しの電話がかかった。
すぐにNHKのラジオとテレビをチェック。
どうやら、昭和の終焉である。前の年の相撲の秋場所以来、
天皇の脈拍、下血の有無など、そのご容態が報道される日々だった。
「Xデー」という言葉が囁かれ、いつか、そう遠くないその日に
それぞれが備えていたと言ってもよいのだろう。

午前8時前、藤森宮内庁長官が、昭和天皇が亡くなったことを発表。
さらに侍医団が正式に昭和天皇の最期の様子を発表した。

新しい元号「平成」が発表されたのは、閣議の終わった午後2時半過ぎ。
当時の小渕官房長官が色紙に書いた「平成」の文字を示しながら言った。
「只今終了致しました閣議で元号を改める政令が決定され、
第1回臨時閣議後に申しました通り、本日中に公布される予定であります。
新しい元号は、平成であります」

同日、「元号を改める政令」(昭和64年政令第1号)は新天皇の允裁(いんさい)を受けた後、官報号外によって公布され、翌1月8日から施行された。
つまり、「平成」は、天皇の即位は7日に直ちに行われたが、
元号としての始まりは8日から、つまり7日夕刊の見出しでは
「『平成』あすから」とつけられていた。

「平成」の出典は、『史記』五帝本紀の「内平外成(内平かに外成る)」、『書経』大禹謨(偽書)の「地平天成(地平かに天成る)」からで「内外、天地とも平和が達成される」という意味。安岡正篤が考案したとされる。元号に「成」が付くのは初めてである。

この日、「平成」という年号は、いまのようにワープロで一発変換はできなかった。
さっそく「単語・用語の辞書登録」をしたのを記憶している。

NHKの大河ドラマ「天地人」みたいな出典ですな。

谷風の風邪2009年01月09日 17:19

谷風の風邪

谷風の風邪


今年はインフルエンザの流行が早いのだという。それも関西から東へ向かって、流行は動いているらしい。通勤電車の中で、右を向いても左を見ても、マスク姿である。そうかといえば、中国で鳥インフルエンザの女性が死亡した、という恐ろし~いニュースも流れている。

そんな中、なぜか1月9日が「風邪の日」なのだそうだ。
いくつかのブログでは「1795(寛政7)年、横綱・谷風梶之介が流感であっけなくこの世を去った。このことから、インフルエンザのことを「谷風」と呼ぶようになった。」とある。

どうやら江戸時代にも、やはり流行り風邪はあったようで、寛政7年にインフルエンザらしきものが流行したという記録があるのだそうだ。ちょうど、その時期、相撲の世界では、第四代の横綱であった谷風が63連勝していて、天下無敵と謳われていた。この谷風が年末に高熱で倒れると、そのまま命を落としてしまった。これ以来、高熱を伴なう風邪を江戸では“谷風”と呼ぶようになった、との解説も聞く。

が、ウィキペディアはもっと穿っている。――正しくは、谷風が「土俵上で儂を倒すことはできない。倒れているのを見たければ儂が風邪にかかった時に来い」と語った時(天明4年頃)に流行っていた流感を「タニカゼ」と呼んだものである。死因となった流感は「御猪狩風」と呼ばれていたが、後に「タニカゼ」と混同されるようになった。

いずれにせよ、タニカゼとハヤリカゼ、というのも、どこか似つかわしい気がしてくるから不思議。
皆様、お気をつけください。


フリーペーパーの衝撃 (集英社新書 424B)2009年01月23日 09:43

フリー

フリーペーパーの衝撃

「R25」「ぱど」「ホットペッパー」……。ターミナルを中心に無料の紙が氾濫している
。それも、それなりの内容を持ったマガジン、となると「衝撃」である。新聞受けには、地域紙や手配りをしている無料新聞が放り込まれている……。新聞にしても、雑誌にしても、有料が当たり前だったのに、なんで「無料」が成立するのか、という仕組みの話から、インターネット時代の活字文化と、ウエッブの世界との架け橋になるとか、ならない、といった文化論にまで話は及ぶ。なかなか取材は行届いているといえる。恐らく、事態は日々動いているのだろうし、数年後には「そんな時代があったの」というくらい、動きは早いはずだ。ここに描かれている数年前のことから、現在のことが考えにくい状態があるほどなのだから……。

フリーペーパーが成立する条件は、広告を伝えたい対象にいかに絞って伝えることができる、という媒体としてのあり方にかかっているようだ。従来の媒体で漏れていた、伝えきれない対象に、どのようにしてデリバリーするのか。ターミナル駅構内のラック、書店に並んでいるラック。以前には見かけないものだったのが今では大威張りの態だ。紙と雑誌とを対比してみると、スエーデンで始まり全世界に展開している無料紙「メトロ」の日本版「ヘッドライン・トゥディ」は、創刊4ヶ月で週刊に転じざるをえなかった。なぜ巧くゆかなかったのか。02年7月という時期だったからか。①コンテンツとしての情報②印刷できる場所の確保③媒体を置くラックなどの確保、そのいずれもが巧くはいかなかったようだ。それは厳しい日本のマスコミ界の危機感の裏返しの表現であったのかもしれない。

だれでもが出せる「紙のブログ」、という章には、高校生の起業プロジェクトの実験が紹介されている。そういう時代なのだと納得させられる。同時に時代の空気を吸いながら、時代の隙間というものにビジネスチャンスを見出すことも。

一つ、豆知識。かつて広告のメカニズムを図式化した言葉に「AIDMA」という言葉があった。Attention(認知) Interest(興味) Desire(欲求) Memory(記憶) Action(行動)の頭文字。それが現在では、別の表現になっているのだそうだ。「AISAS」。「AI」のあと Search(検索) Action(行動) Share(意見共有)。ウエッブにおける消費行動とその結果にいたる流れを示したものだという。ここでも意識は変わっている。