蟹のつぶやき kanikani

『坊っちゃん』とシュタイナー―隈本有尚とその時代 (単行本)2007年11月28日 08:09

河西善治著 ぱる出版 書名を見て、『坊ちゃん』つまり夏目漱石と、シュナイダーについての本かと思い込んでしまう。が、実はそうではない。 結論からいうなら、むしろ、夏目漱石の『坊ちゃん』のモデルとしての「隈本有尚」という人と、隈本にまつわる話が詳しく描かれている。 いったい隈本とは―― 隈本は、久留米藩士の子として久留米蛍川町生まれた。 藩主近従役で、アメリカ留学から明治2年に帰国した柘植善吾に、米学を学ぶ。 明治5年、11歳で藩洋学校の後身、好生館に貸与生として入り、三瀦県立中学校、宮本中学校に学ぶ。 宮本中学校は県有何時の中学校(洋学校)で「英語の素養に重点をおく建前は、蓋し時勢に即しての創意に出で文政上にさえ単行施設としてはその例稀に見るところなのである。現に大学南校(今の東大の前身)の如きは明治六年もって成立を告げたけれど、その眷属たる宮本式の東京英語学校は降って8年1月の実設に係る」(「宮本中学校思い出の記」)と誇らしげに書いている。 隈本は12歳でこの宮本中学校に入学。英人教師から幾何学と地理を学ぶ。星学は博物学のなかで学ぶ。すべて英語での授業。宮本中学校は、明治7年の江藤新平の乱などの影響で学校経営が成り立たなくなり、この年末に廃校。 隈本は上京して東京英語学校、開成学校予科でアメリカ人から数学を学ぶ。明治9年開成学校予科に。当時16歳。同窓生に三宅雪嶺。10年9月、東京大学理学部数学物理星学科に入学。3学科で四人の学生。 東京大学では、ケンブリッジ大学などの留学を終えて明治10年に帰朝と同時に日本人初の理系教授(数学科)となった菊池大麓に学ぶ事となるが、隈本は菊池を認めず、烈しく問い詰めた。 明治12年四月の月刊誌「東京数学会社雑誌」に菊池が出題した投稿に対し、「平民某」の投書が掲載され、菊池の誤りを指摘。「万朝報」の報道するところとなる。 この結果、隈本の学年で数学科を選択する者がいなかった。 隈本は明治16年10月、理学部星学教場補助となったが学位授与式で予備門を含む大部分の学生が授与式をボイコット。 漱石は明治16年、成立学舎に入り、隈本から数学を学ぶ。 漱石の「坊ちゃん」は、赴任先となった松山を舞台にして書かれたが、当初は山口を想定して書かれていた。漱石は山口高等中学校の教師にと誘われていたが、この中学校で明治26年11月、寄宿舎事件が発生、学校騒動が起きていた。この教頭が奇しくも隈本である。隈本は27年9月修猷館に戻る。五高に移った漱石は修猷館の英語を褒めた。 因みに、「シュタイナー」とは、ルドルフ・シュタイナー(Rudolf Steiner, 1861年2月27日 - 1925年3月30日)は、 オーストリア帝国(1867年にはオーストリア・ハンガリー帝国に、現在のクロアチア)出身の神秘思想家 。アントロポゾフィー(人智学)の創始者。哲学博士。シュタイナー教育の名をご存知の方も少なくはないだろう。今回、そこまでの言及は差し控える

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