蟹のつぶやき kanikani

マリアンヌ2008年12月31日 00:15

マリアンヌ

マリアンヌ

まどろみの中に、不思議なモノローグが聞こえてきた。12月11日午前4時過ぎ。
「私は夕方から夜が好きだった。朝が来るのが怖かった……」。その女の人の声は、日本人のような西洋人の日本語のような風変わりな抑揚に聞こえた。「横浜の港で祖母が耳元で、スェーデンに帰ってくるんだよ」と何度も囁いた記憶。かばんの中に入っていた綺麗な外国人の女性と、彼女を抱くカッコの良い男性の写真。教室までマスコミが追いかけてきた日々。スェーデン人だった曽祖父が、お雇いで西洋船を日本へ廻漕して日本へやって来て、日清戦争では日本船の船長をして明治天皇から褒章を授かった人で、川越出身の女性=つまり曾祖母と結婚していたこと。横浜の外国人墓地に花を供えた翌日、スェーデンから来た親戚が墓に供えられている花から彼女と再会する偶然。さらに見たことのないままアメリカに帰った父親についての消息が分かり、連絡がとれたこと。――そんな話だった。なにやら、曖昧模糊としながらも、やたらにドラマチックな話とも聞こえた。

目を覚まして、NHKのラジオ深夜便の番組表を見ると、〔こころの時代〕 「自分探しの旅で得たもの」 葛飾区外国人アドバイザー  マリアンヌ・ウィルソン・黒田 とある。マリアンヌ、who?である。インターネットで検索してみると、(社)スウェーデン社会研究所が彼女の講演会を開くに当たって、紹介している文章に行き当たった。プロフィルを引用させてもらう――。

今回の講師は、マリアンヌ・ウイルソン・黒田さんで、その劇的な半生についてお話頂きます。マリアンヌさんは、米露冷戦時代のなかで特殊任務を負うアメリカ人の父親とは生前に別れねばならず、横浜で暮らしていたスウェーデン人の母親とも1歳の時に死別、以来、スウェーデン、アメリカ、日本と3つの祖国にまたがる自分のルーツ探しが始まりました。

「自分はなんのために生れてきたのか」という懐疑を解き明かしたい情熱と幾多の偶然に支えられ、ついに曾祖母が川越の日本人、山崎ナカで、その夫が明治初期に航海術の指導のために来日していたスウェーデン人、ジョン・ウイルソンであることにたどり着きました。曽祖父ウイルソンは天皇陛下から大勲章を授与された始めてのスウェーデン人であることも分かりました。

特別使命を帯びた米国軍人である父親の事情もからみ、国籍がないまま6歳の時にスウェーデン政府が身柄引渡し訴訟を起こし3年後にスウェーデン国籍を獲得しました。母親の知り合いの日本人養父母に世話になりながら18歳までスウェーデン大使館で暮らした後、スウェーデンの大学を卒業、そこに滞在していた日本人商社マンと結婚し再度来日しました。

マリアンヌさんのお話は数奇な宿命を負ったスウェーデン女性の感動的な一大ドラマです。現在はご自分の体験を生かし、地方自治体で外人アドバイザー、外国人の受入れ指導、DVに苦しむ女性の駆込み寺、公立学校の英語教師など多彩な活動を続けています。是非、多くの方のご参加をお待ちいたします。

――以上が、講演会で示されたプロフィルだ。
今回の深夜便の話は、結構、聞かれていたのだと思う。web上でも、いくつかの書き込みが引っかかった。その中で、意識覚醒してラジオの話を聞き書きしてくれているログがあった。http://blog.goo.ne.jp/kosyuanjin/d/20081211/[弧愁庵人の逆襲]というブログ(この後、暫くの休ブログ宣言が掲載され、現在休止中)だ。引用させてもらう――。

戦争。その前後の混乱。日本にいる外国人同士のカップルに子供が授かった。父は任務でアメリカに帰国しなければならなかった。妻子を連れて帰りたかったが、当時アメリカにとってスェーデンは敵国であった。承認できない外国人との結婚を認めなかった。日本に残された母親と幼子。悲しみに明け暮れてそして母は亡くなった。その幼児を日本人夫婦が育てたのだが、これも最悪。養父は酒乱。日本全国貧しかったけれども、輪をかけた貧困家庭。電気を止められる。食べ物が無い。父は金を入れず、母を殴る蹴るの暴行が日常。メアリーは朝が来るのが嫌いだったと言う。朝が来ないでそのまま死にたいと、ずっと子供の頃はそればかり考えていたのだと言う。

当時、彼女は無国籍児。アメリカは父と母の結婚を認めないから父親の米国籍は無い。母は結婚を認められてないから、スェーデン人の母の子であっても、戸籍上入れられなかったらしい?日本の育ての親は、もちろん日本国籍にして養子にも出来なかった。

後に知ることになるのだが、アメリカで父は何とか愛する妻子を迎えようと大統領にまで嘆願書を出していたのだった。何とかスェーデン人の妻を認めてほしいと、上院議員を使って議会に法案も提出したのだった。その提出日に、まったく時を同じくしてに母親は日本で亡くなった。(マリアンヌを手放したくない日本の養父母はアメリカ人の父を罵り、悪魔のような存在として教育した)

そのうちに、母方の様々な力で、スェーデン国籍を取り、人生が少しずつ好転していく。途中省略・・・・・・
日本人と結婚し、やはり父と会ってみたいと考えていろいろ調べた結果、アメリカに該当者がいた。亡くなった人間のリストの中に・・・・。そしてよく調べてみるとそこには「弟」が住んでいることも解かった。怖くて電話できずに、友人を仲介して電話することが出来たのだが、その際の会話は感動的だ。全て英語の会話に中で
「日本語で姉のことはなんて発音するのですか?」
「オネェサン・・」
「日本語で弟のことはなんと発音するのですか?」
「オトート・・」
「オネェーサン、父はロケットに貴女の母と赤ちゃんの写真を死ぬまで持っていました。毎年一年に一回、オネェサンの誕生日は食事も用意していました。父は悩んでいました。オトートはオネェサンに会いたかった・・・」

その後日本人の夫の薦めもあって、渡米し空港で涙の対面をして兄弟は抱擁しました。父が国に対してどれだけ働きかけたか、その法案が議会に提出された日に母が亡くなった事実を知ったときの驚きと悲しみ・・・。途中省略・・・・

十代まで、幸せという感情を味わったことの無いメアリーが、ようやく立ち上がり、強く生きている。今はアメリカにいる弟たち親族とスェーデンにいる親族たちが日本に集まることを毎年の楽しみにしているのだと言う。月々その積み立てをしているのだと言う。

天涯孤独の悲しみに満ちた人生のメアリーのルーツは、明治期、日本に航海術を教えに来日したスェーデン人であり、天皇から最高勲章を受けた外国人であった。今ではそのことを誇りとして、末裔たちが日本のメアリーのもとに集まるのだと言う。

――弧愁庵人さんの聞き書きだ。聞き手が違えば、ニュアンスやアクセントの違いのようなものはあるが、概ね、ラジオでの話は伝えられているように思う。さて、そんな話なら、どこかでマスコミが当時も大騒ぎをしたに違いない。検索してみるとあった。

昭和31年(1956年)3月8日朝日新聞朝刊の社会面トップ。横カットで「孤児めぐって愛情合戦」。縦の4段見出しには主見出し「育ての親と肉親の国」、脇見出し「14日、横浜で国際裁判」。主見出しの「育ての親」の脇には「日本人夫婦」とあり、「肉親の国」の脇には「スウェーデン」と振り仮名風に読みをつけている。マリアンヌちゃんの3段分の写真も載せている。当時の日本の記事がどのような書きっぷりか――。

 [横浜発] スウェーデン人を母とし、米人を父として生まれた6歳の少女をめぐって、この14日横浜で珍しい国際裁判が開かれる。どちらも子供の幸福を考えての”愛情の奪い合い”だが、この子を引取りたいというスウェーデン公使と6年間この子に愛情を注いできた日本人の育ての親との話合いがつかないまま法廷で対決しようというのである。

問題の女の子は横浜市神奈川区白幡1,021駐留軍要員山口正勝さん(35)同ヒデさん(33)夫婦に育てられているマリアンヌちゃんで6歳と11ヶ月。日本語をしゃべり日本人と同じものを食べ、もちろん自分は日本人だと思っている。母親のヴィヴィアン・ウイルソンさんは24年米軍属ジェームス・ヴォーン氏との間にこの子供をもうけたが、ボーン氏はすでに帰国しており、その後「ふとした誤解」(山口さんの話)から音信が途絶えた。マリアンヌちゃんが生まれて間もなく母親は胸を病んで死んだ。ヴィヴァンさんの父ウィルソン氏(50)はそのころ横浜国大の英語講師をしていたが、マリアンヌちゃんを育てることができないと、日ごろヴィヴァンさんと親しかったヒデさんに孫の養育を頼み、29年夏スウェーデンに帰ってしまった。
こうして山口さん夫婦の子供として育ったが、この4月小学校に入学するのに無国籍では――と去年秋、日米混血児協会の口利きで山口さんがマリアンヌちゃんと養子縁組をする手続きを始めた。ところが去年クリスマス前、夫妻は突然スウェーデン公使館に呼出されて公使のラーゲルフェルト氏から「マリアンヌをすぐ引渡してほしい」といわれた。子供はスウェーデンの国籍を持っているが、国籍や法律はどうあろうと夫婦はマリアンヌちゃんをすぐ返す気になれなかった。公使館側は2回にわたって外務所や日米戦災孤児委員会に頼んだが、話はつかなかった。
そのうちラ公使は転任することになってこの18日羽田を発つので一刻も早く引取って問題を解決したいと公使自身が本国政府から、「マリアンヌちゃんの後見人」に選ばれた。そして先月22日、ついに横浜地裁に「幼児引取り請求」の訴えを起こした。これを知ってヒデさんは「いよいよ子供を奪われる恐ろしさで毎夜眠られない」といっている。またマリアンヌちゃんが通っている武相高校付属金港幼稚園の「母の会」と地元の青年会でも「マリアンヌちゃん引渡し反対」の書名運動をはじめるという。

マリアンヌちゃんの話 遠いところへ連れて行くなんてそんなお話よして。私はマミー(ヒデさんを指す)のおなかから生まれたんだから……

ヒデさんの話 祖父のウイルソン氏は前の公使にマリアンヌの国籍をくれと頼んだけれど、許可にならなかったそうです。それで私に自分の子として育ててくれといって帰ったのです。いつかはスウェーデンに返さなければならないにしても、お嫁に行くころまでは手放したくない。どうしてもいけないならばせめて小学校をでるまで待ってほしいのです。

山口さん側の弁護人飛鳥田喜一氏の話 マリアンヌがスウェーデン人であるか、それとも米人であるかについては法律的に議論があり、争う方法もある。しかし外人の間に生まれた子供なので山口さんにはあきらめなさいと勧めたがきかれなかった。裁判で決着がつくのは子供には不幸なことなので話合いで円満に解決したいのだが……

スウェーデンの公使K・G・ラーゲルフェルト氏の話 裁判にまで持って行きたくはなかったが、どうしても山口さん夫婦の同意が得られないので、こうする以外に手がなかった。こちらが引取ることを承諾してもらえば、いつでも訴訟を引下げるつもりだ。マリアンヌちゃんがいまのまま日本でくらすとすれば、大きくなるにつれ”日本人でない”ことがはっきりしよう。就職、結婚……いろいろな問題が待ちかまえている。だから彼女がいちばん仕合せにくらせるところは、やはり母国ではないだろうか。引取ることになったら、東京にいる日本語の話せるスウェーデン人のいい家庭に半年か一年くらい預け、なれてから本国の適当な家庭に養子にやりたい。
スウェーデンでは孤児の数より、引取りたいという家庭の数がはるかに多いので、申し込んでから1,2年ぐらい厳選して、やっと養子縁組がかなえられるくらいだ。もし子供を引取るようになれば、山口さん夫婦には、これまでマリアンヌちゃんをそだてるのに要した費用をお返ししたい。もちろん、愛情を現金で買うつもりはない。私たちの感謝の気持だ。
ともかく一人の女性の長い将来の問題だ。山口さん夫妻にはたえがたいことだろうが、この際、思い切ってあきらめてもらいたい。今も子供は仕合せだろうが、私たちはもっと仕合せにしてやりたいのが願いだ。

――どっしりと、無国籍孤児をめぐる愛情合戦として、珍しい国際裁判を大岡裁判さながらの書きっぷりだ。多分に地の文は山口さん側の言い分をベースにしているように感じられる。大岡裁判か「藪の中」か。いずれにしても、もう少しマリアンヌ自身の記憶や公文書、当時の報道などを整理して考える必要がありそうだ。マリアンヌ自身が、友人たちと自らのドラマを書く準備をしているようにも聞いた。

なお、先の新聞記事の続き。予告どおりに31年(56年)3月に裁判が始まり、同年12月5日付の夕刊で横浜地裁の判決「母国に渡せ」。控訴して33年(58年)7月9日付夕刊で控訴棄却、つまりスウェーデン側の勝訴となり、上告期限ぎりぎりの24日夕刊で示談が成立。同29日朝刊で「マリアンヌちゃんに生活費など支給 スウェーデン政府」の記事がある。