蟹のつぶやき kanikani

童画の世界2008年12月10日 07:33

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上野の東京国立博物館と芸大の間に、国立国会図書館の国際子ども図書館がある。その3階で、童画の世界――絵雑誌とその画家たち」という展示会が開かれている。「童画」という言葉は、画家の武井武雄が、それまでの文章に添えられた挿絵から、独立した「絵画」の分野として名づけた、児童画の独立宣言のような造語のようだ。

「日本における児童向けの雑誌は、明治後期に誕生し、その中から生まれた絵を中心とする絵雑誌は第一次世界大戦時の好景気と大正デモクラシーの自由な雰囲気に支えられ、花開きました」と、イベントの説明の冒頭にある。「しかし、昭和期に入り、日中戦争、第二次世界大戦による物資不足もあいまって、次第に絵雑誌は統合され、衰退していきます。」と。

HP によると――今回の展示会では、「コドモノクニ」、「子供之友」、「コドモアサヒ」などの昭和前期までの絵雑誌と、そこで活躍した、竹久夢二、岡本帰一、武井武雄、初山滋、村山知義などの代表的な童画家たちの作品を紹介しながら、絵雑誌の誕生から衰退までの流れをたどります。=写真は、「コドモノクニ」10巻6号(昭和6年5月)「ボクノオ室」岡本帰一

興味深いのは、児童雑誌の表現の制約としての雑誌の判のサイズの変遷。初めは大人も子どもも区別ないのでA5版で文字も通常の細かさで漢字交じり。やがてサイズが一回り大きくなりB5版、横長に展開する。文字フォントも大きくなり、全部カタカナに。いまなら当然、ひらがなであるのだろうが、当時は幼児教育から小学校までカタカナが導入部にあった。地の文は原則として縦書きだから、問題ないのだが、見出しやカットなどの横書きは、右から左であったり、左から右であったり、戸惑うことが多い。

「コドモノクニ」や「子供之友」から「コドモアサヒ」となってくると、大阪朝日新聞の子どもたちを対象にした仕事が始まる。なかなか良い仕事をしている。戦前の児童図書の息の根を止めたのは、用紙統制という総動員体制の流れだったことが分かる。

この図書館は、児童書を専門に扱う図書館サービスを行う国立国会図書館の支部図書館で、2000年に日本初の児童書専門の国立図書館として設立されたのだそうだ。明治39年に久留正道により設計された。ルネサンス様式を取り入れた明治期洋風建築の代表作のひとつで、戦後も国会図書館の支部として使われてきたが、子ども図書館となるに当たって安藤忠雄建築研究所と日建設計により旧建築を生かした形の中で設計、鴻池組により改修が行わた。2002年に完成、全面開館、古い建築をスケスケのアクリルで囲い込んだような改修ぶりも話題を呼んだ。「内外の児童書や関連の研究書などを広範に収集・提供・蓄積し、電子的な情報発信を行うとともに、子どもと本の出会いの場を提供し、子どもの読書に関わる活動を支援するナショナルセンター」だが、建築探偵にも必見の建物。

因みに展示会の開かれている3階の会場は、かつての「閲覧室」、高い天井や華麗な室内の装飾も楽しめる。無料。09年2月15日まで。

蛇足だが、http://www.tcl.or.jp/[東京子ども図書館]という別の財団法人組織も中野区にある。「石井桃子のかつら文庫」など4つの家庭文庫が母体となった法人組織の私立図書館だそうだ。

3億円2008年12月10日 17:23

もう40年前になるのだな、と感慨ひとしおである。あの「3億円事件」。 1968年(昭和43年)12月10日午前10時前に、その事件は起きた。いまさら「3億円事件」の説明をするまでもないだろう。その日、私は入社1年目、四国のある県都の警察本部の記者クラブで、この事件の一報を聞いた。当時、大事件が発生したといっても、NHKを含めてテレビの速報体制というのは、まだまだであった。 それでも正午前には、事件のあらかた、輪郭が浮かび上がってきた。 白バイの警官を装い、現金輸送車を止め、爆弾が仕掛けられている恐れがある、といって発煙弾で煙を発生させ、輸送車から乗員、警備員を離れさせて、輸送車に乗込んで逃げ去った。輸送車には、東芝府中工場の行員らのボーナスがジュラルミンの箱に収められ、概ね3億円。2億9430万7500円が載っていた。 男は、犯行現場から逃走用の車を置いていた第2現場に輸送車を乗り捨て、非常線をあっという間にかいくぐり、逃走した。 「なんと3億円」。いまでもジャンボ宝くじの当籤額だが、当時のまずまずと思われた初任給本給がざっと3万円。それ以前の高額盗犯の被害額が3100万円であったことからいっても、今考える額の何十倍もの値打ちを感じたものだ。 それを、ダレも傷つけることなく、演技プラン通りに盗みきった。「まんまと」という表現は、この犯行のためにあるようなものだと、世間一般、この犯人に喝采を送ったというのが本音だろう。 だれもが傷つかず、輸送した銀行も、盗まれた金が保険で戻ってくる、現に翌日には東芝府中の行員さんたちに、たっぷりであったか増減なくボーナスが支払われた。 「直にも犯人は挙がる」。当時、世間の会話は3億円事件をおいては語れないほど挨拶がわりだったから、取材して廻るお巡りさんたちのダレもが、自信を持って、早期検挙を語っていた。「これだけ物証が残っているんだから……」 結果は、歴史が語っている。 それにしても、あのモンタージュ写真。 「3億円事件」と「グリコ・森永」のキツネ目の男の似顔絵くらい、人々の網膜に刻み込まれた「顔」はなかったかもしれない。「3億円」は、その点でもハシリであった。

“認罪” NHKハイビジョン特集2008年12月10日 23:14

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もう10日余り前の放映ながら、今のところ再放送がなさそうなので、KWに書き留めておこう。
戦後の、というか戦後直後のことには分からないことが、まだ数多くある。謎は解けないままなのかもしれない。その一つが、今回の特集が提出しているソ連から中国に移管された‘日本人BC級戦犯’969名の問題だ。そもそもが「BC級戦犯」というカテゴリーが、嘗ての芸術祭テレビ作品「私は貝になりたい」で、少なくとも私にとっては初めて印象付けられたものであった。

映像は 1950年7月、この戦犯たちを搭載した列車がシベリアから帰国する鉄路から、方向を転じて新中国の満州地域へと動き始めるところから始まる。帰国を夢見ていた「抑留されていた」元日本兵たちにとって、新たな苦難の始まりだった。列車が着いた先は撫順の戦犯管理所であった。NHKの番宣によると「6年後、彼らは自らを戦犯と認め、裁判にのぞむ。しかし起訴は36名のみ。死刑は一人もいなかった。有罪とされた者も、その後全員釈放。BC級裁判の中で死刑を出さなかったのは中華人民共和国だけだった。しかしそこに至るまで、元日本兵たちは、真綿で首を絞められるような扱いを受けた」とある。
戦犯管理所での待遇は、シベリアとは比べものにならないほど良く、拷問があるわけでも無かった。しかし、罪状を自ら書かされ(認罪)、何度も書き直しを求められた。

番組の中で証言する元日本兵たちは、すでに八十歳を大きく過ぎた人たちだ。戦犯管理所に収容した兵士たちが、東大で哲学を専攻したエリートから、小学校だけしか卒業しなかった人たちまで、それぞれの貴賎能力の区別なく集合した集団であったのと似せたかのように、ある老人は理性的に、またある人は老獪なる農民の智慧を感じさせるインタビュー証言であった。それだけに立体的に、当時の雰囲気や怖さが伝わってきた。結果としてはなかったのだが、認罪の過程で継続した死刑の恐怖の中で、戦争中の自分の行為を見つめ直す。罪を犯した者、被害を受けた者が、戦犯管理所の「認罪」という極限状態の中で向き合う。精神に異常をきたす者も出る一方、自らの罪を認め、敵味方を越えた関係を築く者も現れる。

戦犯として扱われた元日本兵の側からの思いと恐怖と同時に、彼らを収容し管理する立場の中国人職員の側の悔しさの証言が、この問題の深さと奥行きを感じさせる構成になっていた。彼ら中国人職員は、日本人の人格を尊重し暴力を禁止するよう命令されていた。その「命令」の要の位置にいたのは周恩来であったことが提示され、元日本人兵への処分についての案が何回かにわたって現地の管理所幹部と上層部(そこに周恩来がいた)とのやりとりを示す文書が映像化されていた。やりとりの詳細については明らかにされていないが、肉親を殺された恨みを押し殺しながら、職員たちは日本人の思想改造につとめた。罪を犯した者、被害を受けた者が、戦犯管理所の「認罪」という極限状態の中で向き合う構図だ。

「認罪」というのは、外ではない日本にとって求められている歴史の総括の一つの方法なのではないのだろうか。映像に出てきた証言者たちのほとんどが、ソ連に抑留されていたときの立場は、敗戦によって「捕虜となった兵士」としての立場から、自らが「戦犯」として自らの罪を認めさせられようとすることへの、いわば「不条理」な感覚であったのだろう。「自分たちは天皇の命令によって戦った兵士であって、それ以上に罪を犯したものではない。戦場で振舞った行為は、戦闘の中でのお互い様で、強いられた戦闘行為に自らの責任・罪はない」と思っていたとしても、無理からぬことに思える。
だが、「強いられた戦闘であっても、戦場で行ったことへの認罪」を求められた状況というのは、戦争を自分たち自身では体験していない、親や祖父の時代の出来事で、自らは関わりがない、無縁の間柄だ、という世代にとっての「歴史認識」と通底したものがあるように思われる。

終戦の時点から11年余りが過ぎ、元日本兵は祖国の土を踏む。だが、この戦犯管理所を間に挟んで中国側に残った人たちの身の上には、「文化大革命」という嵐も吹きすさんだ、というのは、何と重層的な悲劇であることなのだろう。自分たちが恨みを押し殺し、対してきた管理所での元日本兵への扱いが、戦犯に甘く反革命的だ、と自己批判を迫られる。あらたな立場を替えた「認罪」。

特集は11月30日(日)午後7:00~8:50 BShiで放映された。いまのところ再放送のテーブルには載っていないようだが、考えさせられた特集だけに、記録に留めておきたいと思った。