蟹のつぶやき kanikani

ゴーギャン展2009年07月04日 08:37

(無題_09年07月04日_084023)


画家が目指した芸術の集大成であり、その謎めいたタイトルとともに、後世に残されたゴーギャンの精神的な遺言とも言える大作《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》の日本初公開など、『ゴーギャン展』が東京国立近代美術館で始まった。9月23日まで。大作などを所蔵するボストン美術館をはじめとする油彩や、『ノアノア』のための木版画では残された3種類の刷りを内外の美術館から集めるなど約50点。腹八分目のボリューム感で、後味は悪くなかった。

初日の3日は金曜日。午後8時まで開館しているので出かけた(会期中は土曜日も20時まで開館)。この日は学校の教職員を対象とした鑑賞プログラムも行われていたが、さした混雑まではなく、お行儀も良い中での鑑賞。

展覧会の構成は
1章 内なる「野性」の発見
2章 熱帯の楽園、その神話と現実
3章 南海の涯(は)て、遺言としての絵画

第1章では、印象主義の影響が色濃く残る初期のスタイルから、ケルトの伝説が息づくブルターニュ地方との出会い。「そこで画家は、形態を単純化し、縁取りのある平坦な色面によって堅固かつ装飾的な画面を構成するスタイルを確立」していく。国立西洋美術館の松方コレクションでおなじみの《海辺に立つブルターニュの少女たち》などの画が並ぶ。
ここでは熊谷守一のフォルムを連想するような《洗濯する女たち、アルル》の洗濯女たちの尻の作り出すリズムが楽しかった。一方、横たわる女の左肩に狡猾な狐が腰掛けている《純潔の喪失》という絵は、画家の当時の状況が狐と重ねられているのか、不可思議な絵であった。

第2章では、タヒチの原始と野性が、造形的な探求にさらなる活力を吹き込むことを期待しての旅立ちから。すでに無垢な楽園はなく、ゴーギャンは西欧文明の流入によって失われつつあるマオリの伝統に思いを馳せ絵筆を走らせた。大原美術館にある《かぐわしき大地》などの油絵が並ぶ。
「ノアノア」の連作版画がまとまっているのも、この章。ゴーギャン自身の「自擦り」と「ルイ・ロワ版」、「ポーラ版」と、同じ版でも擦りによっての印象の違いが如実に理解できる。「ルイ・ロワ版」はボストン、「自擦り」と「ポーラ版」は岐阜県美術館所蔵のものだ。

第3章では、パリに戻って、タヒチ時代の作品に対するパリ美術界の無理解に幻滅し、二度と戻らぬ覚悟で南海の果てへ。健康状態が悪化、財政も逼迫して制作もままならない日々が続き、さらに最愛の娘の死の知らが届く。自らの運命を呪いながら、ゴーギャンは遺言としての大作の制作に着手する。蒼ざめた馬にまたがった死の神と、付き従って死の世界へと踏み込んでいく青年の姿を表現したという《浅瀬(逃走)》(プーシキン美術館蔵)なども。大作には、ゆったりと展示室が1室、その手前では大作の見方を映像で見せる部屋も。

最後の位置にあるのは、亡くなる直前の《女性と白馬》(ボストン美術館蔵)。もう画家に力は残っていなかったのかもしれないが、逆に女性の細さ、自然のグラディエーションの美しさ、そして画家がすぐ後に埋められた墓地の在り処が見える丘の上の十字架。どこかホッとした。

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