さてピラミッドは? ― 2014年05月30日 01:03
獅身人面像」。撮影用というが、ピラミッドは作らなかったのかなぁ。世界遺産は複製してはいけないものか、エジプト政府もどう考えたんだろう。
偽スフィンクスが中国に出現 エジプトの反発で取り壊しへ
http://www.huffingtonpost.jp/2014/05/26/sphinx-china_n_5391390.html
花子とアン ― 2014年04月05日 00:14
どうだろうか、と思いながら見ていた「ごちそうさん」も、高視聴率のままに大団円。週初めからは「花子とアン」が始まり、1週間が経とうとしている。さて、好調の朝ドラの視聴率を引き継げるだろうか。
あの「おしん」の放映が始まったのが1983年4月4日だったのだそうだ。もう31年も前のことになる。1年間通しの放送の平均視聴率は52.6%。ビデオリサーチの統計史上、テレビドラマの最高視聴率記録となっているのだそうだ。橋田寿賀子の脚本、子役の小林綾子の好演、田中裕子、音羽信子と主役3人のリレーだったが、お化けほどの人気であった。
一代記ものでのトップランナーとなる子役が、どこまで人気の助走を務められるか、というのがカギにもなるのだろう。「花子とアン」の子供時代を演じるのは山田望叶と書いて、「もちか」と読ませる女の子。懸命でいじらしいほどであるが、話の筋がどうだろう。ハナが高熱を出して、長らくの行商から父親が帰宅した場面。父親から筆を受け取り、かなで辞世を綴り、死を覚悟する、という場面が出てきたのだが、年端のいかない子に、これはなんでも脚本のやり過ぎではないんだろうか。どうも合点がいかない。望叶ちゃんは2週分を務め、吉高由里子が東洋英和であるミッションスクールの生徒として登場する予定らしい。役者は2人とも左利きなのだが、モデルの村岡花子さんは右利きなので、右手を使わなければならず、これが苦労、とは放映直前のブログでの告白。さて、どうなるか。
http://www.nhk.or.jp/hanako/
ゴーギャン展 ― 2009年07月04日 08:37

初日の3日は金曜日。午後8時まで開館しているので出かけた(会期中は土曜日も20時まで開館)。この日は学校の教職員を対象とした鑑賞プログラムも行われていたが、さした混雑まではなく、お行儀も良い中での鑑賞。
展覧会の構成は
1章 内なる「野性」の発見
2章 熱帯の楽園、その神話と現実
3章 南海の涯(は)て、遺言としての絵画
第1章では、印象主義の影響が色濃く残る初期のスタイルから、ケルトの伝説が息づくブルターニュ地方との出会い。「そこで画家は、形態を単純化し、縁取りのある平坦な色面によって堅固かつ装飾的な画面を構成するスタイルを確立」していく。国立西洋美術館の松方コレクションでおなじみの《海辺に立つブルターニュの少女たち》などの画が並ぶ。
ここでは熊谷守一のフォルムを連想するような《洗濯する女たち、アルル》の洗濯女たちの尻の作り出すリズムが楽しかった。一方、横たわる女の左肩に狡猾な狐が腰掛けている《純潔の喪失》という絵は、画家の当時の状況が狐と重ねられているのか、不可思議な絵であった。
第2章では、タヒチの原始と野性が、造形的な探求にさらなる活力を吹き込むことを期待しての旅立ちから。すでに無垢な楽園はなく、ゴーギャンは西欧文明の流入によって失われつつあるマオリの伝統に思いを馳せ絵筆を走らせた。大原美術館にある《かぐわしき大地》などの油絵が並ぶ。
「ノアノア」の連作版画がまとまっているのも、この章。ゴーギャン自身の「自擦り」と「ルイ・ロワ版」、「ポーラ版」と、同じ版でも擦りによっての印象の違いが如実に理解できる。「ルイ・ロワ版」はボストン、「自擦り」と「ポーラ版」は岐阜県美術館所蔵のものだ。
第3章では、パリに戻って、タヒチ時代の作品に対するパリ美術界の無理解に幻滅し、二度と戻らぬ覚悟で南海の果てへ。健康状態が悪化、財政も逼迫して制作もままならない日々が続き、さらに最愛の娘の死の知らが届く。自らの運命を呪いながら、ゴーギャンは遺言としての大作の制作に着手する。蒼ざめた馬にまたがった死の神と、付き従って死の世界へと踏み込んでいく青年の姿を表現したという《浅瀬(逃走)》(プーシキン美術館蔵)なども。大作には、ゆったりと展示室が1室、その手前では大作の見方を映像で見せる部屋も。
最後の位置にあるのは、亡くなる直前の《女性と白馬》(ボストン美術館蔵)。もう画家に力は残っていなかったのかもしれないが、逆に女性の細さ、自然のグラディエーションの美しさ、そして画家がすぐ後に埋められた墓地の在り処が見える丘の上の十字架。どこかホッとした。
日めくりタイムトラベル ― 2009年04月12日 07:23

それを映像や、その年に生まれたゲストが検証したりする。タイム・トラベル。毎月、BS第2チャンネルで毎月第2土曜日の夜8時から11時まで放映して、すでに19回が終わっている。毎回の番組をなるべく見ている。懐かしいのと、現在の眼から見て、あの時代が、どういう時代であったのか、と位置づけを含めて考える参考になるような気がしている。今回は「昭和40年」。
私は大学1年から2年になる頃だった。1月から2月にかけて慶応大学の授業料闘争があり、学校側が譲歩した。それ自体は過激でもなんでもなかったが、その後の学園闘争の序曲。「テケテケテケ」のエレキ・ブームを齎したベンチャーズの来日。丸山明宏(美輪明宏)の「ヨイトマケの唄」のレコード発売。「売血」から「献血」へのキャンペーンや、テレビコマーシャルの「わたしにも写せます」というフレーズが流行語となった、扱いが簡単な新方式の8ミリカメラ「フジカシングル8」発売など、今から考えてみると、この年の時代的な転換点としての意味が見えてくるように思える。
が、何よりこの年を特色付けているのは「ベ平連」運動の始まりの年であることだろう。小田実や開高健の呼びかけによって結成されたのが「ベトナムに平和を!市民・文化団体連合」、通称「べ平連」だ。清水谷公園での集会から、8月15日の徹夜ティーチイン、カンパを集めてのNYタイムズ紙への反戦広告掲載など、その残した足跡は消え去ることはなし。何より、その組織論としての「ベ平連」は忘れてはならない、智慧の結集の成果だと思われるのだが、これを継承して地道に大衆を糾合していけるだけの組織論、なにより「役者」が出てきていないのだろう。昭和40年生まれのゲストをはじめ平成に近い若者?にも、改めて、この日のべ平連と、その周りでそれを「しなければならない」と思い、「北」の被害に思いを寄せられた人々への話には共感以上のものを与えたようだ。
加山又造 ― 2009年02月28日 23:26
氷雨の中、金曜の夜の部で乃木坂の国立新美術館に加山又造展を見た。10万人が見た、とHPにあるので大混雑を懸念しましたが、寒さが幸いしたらしく、閉館の午後8時直前には、雪月花の屏風をはじめ、苦心のヌード屏風も、さながら独り占めの気分で展観することができました(3月2日まで東京。その後、4月17日(金)から5月31日(日)まで香川県の高松市美術館に巡回)。
「春秋波濤」は、大阪の金剛寺に伝来する屏風「日月山水図」を実見して、加山が作り上げた世界。西洋風の時空を超えたところの表現とでもいうのだろうか。琳派、という日本画の装飾的な流れにあるのだろうが、これをみていると油絵で表現される西洋画というのは、絵画の一つのジャンルにしか過ぎないような気すらしてくる。
《黒い薔薇の裸婦》 などのヌードの世界になってくると、写実なのだが、それ以上のエロティシズムが感じられる。それが浮世絵の女性の曲線であるのか、解説通りのことであるのかはわからないが、そそるものがあるのは間違いない。
「夜桜」や、なんといっても「月光波濤」と言う画のインパクトは凄い。エアブラシ、噴霧器、染色手法など、さまざまな思いつく限り、できる限りの手法を使っての細密さ、静謐さ。色と色のない世界と、堪能した時間だった。
加山さんについて、特別の思いいれもある。彼の自宅は横浜・鶴見で、我が家のすぐ近くで、だからどうだ、ということではないのだが、不思議に親近感を感じていた。これだけの作品が集まったのを見たのは、私にとって初めてだった。出展されている作品の所有関係をみていくと、国立近代美術館のものが多いので、またまた見る機会はありそうだ。
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