蟹のつぶやき kanikani

加藤弘之という人(上)2007年08月06日 07:14

東京大学の初代学長は、加藤弘之という人だ。
明治になって開成学校などを経て、東京大学が、東京大学という名称でスターしたのが明治10年(1877)。その後、明治19年には単に「帝国大学」となり、明治30年に東京帝国大学になる、という変遷を辿る。加藤は、その初めの東京大学の学長、総裁だ。

加藤は、もと出石藩(兵庫県出石郡)出身の蘭学者。開成学校の前身である蕃書調所の教官となった万延元年、プロシアと日本が国交を結ぶ。プロシア国王から徳川幕府に電信機械が贈呈されることになり、誰かが、その使用法を習わなければならない。とはいっても、当時の幕府にプロシア(ドイツ)語を使える人間はおらず、加藤がオランダ語・ドイツ語対訳会話集を片手に電信技術を習った、というのが加藤の出世の始まりのようだ。

1年ほどの間に、加藤はドイツ語をマスターし、第一人者になる。大部の訳本を出したり、諸外国の政治体制=政体などを紹介する。そんなことで、加藤は幕末から明治維新期の啓蒙政治思想家の筆頭にあげられるようになる。

そんな中で「君主専制は蛮夷の政体」との主張を展開する。

明治維新の中で、その政体は決して、現在考えるようにコンクリートなものがあった訳ではない。立花の説明。

――王政復古の大号令とともに、まず古代王朝の太政官制を復活させる形をとったが、その実際の組織的実態は朝礼暮改の連続だった。慶応3年の総裁・議定・参与の3職制にはじまり、慶応4年3職8局制、同年の7官制、明治2年の2官6省制、明治4年の太政官・3院・8省制などなど、相当の専門家でも細かくは覚えきれないほど、国家体制は転々とした。結局、明治18年(1885)の内閣制度創設(太政官制度廃)を経て、明治22年(1889)の帝国憲法発布(立憲君主制成立)にいたるまで、日本の政体は揺れ動いてすっきりさだまらなかったのである。

学校で習った、あるいは習わなかった明治維新の歴史、というのは、なかなか簡単に割り切ってすんなりと、その後の伊藤博文だとかの明治政権につながるような生易しいものではなかったようだ。

白虎隊の生き残りの東大総長2007年08月23日 19:11

きょう23日は、会津の白虎隊が自刃した日なのだそうだ。


白虎隊とは何か? 
会津藩は鳥羽伏見での教訓から、軍制を改革し、年齢別の組織を設けた。朱雀・青龍・玄武・白虎の4隊で、さらに階級によって士中退、寄合隊、足軽隊に区分されていた。洋式銃を買い集めるなど、来るべき新政府軍との戦いに備えた。年齢別とは、「白虎」が15歳から18歳までの一番若い子弟で編成され、18歳から35歳の精鋭の「朱雀」隊が実戦部隊、36歳から49歳の「青龍」は藩境の守備、50歳以上の「玄武」と白虎隊は予備隊だった。


飯盛山で自刃して知られる白虎隊隊士は、「白虎士中二番隊」42名の生き残った19名のことだという。


この同じ白虎隊におりながら、永らえて後に東京帝国大学総長になった男がいる。山川健次郎。祖父の代には家老職の家格。兄は山川大蔵、のちに会津再興で斗南藩の大参事として牽引。妹は後に鹿鳴館の華といわれた山川捨松だ。


健次郎は、会津若松城の篭城戦を経験し、開城後は猪苗代に謹慎していたところ、会津藩士秋月悌次郎(後に五高の教師などとなる。五高では小泉八雲と同僚)と長州藩士奥平謙輔との密約で、会津の将来を託する人材として、越後へ逃げる。


さらに明治4年、北海道開拓使で技術者養成のため、書生をアメリカに留学させるに当たり、その一員に選ばれる。開拓使の薩摩の黒田清隆がいたことが幸いしたといわれる。黒田に引率され渡米。エール大に合格、日米の彼我の差は「理学」の軽視にあり、と自らの専攻を物理とした。


帰国した健次郎は、東京大学の前身、東京開成学校の教授補として歩み始め、明治12年には日本人として最初の物理学教授となる。明治19年には帝国大学令が発布され東京大学は、分科・理科・医科・工科・法科の5つの単科大学で構成する東京帝国大学となり、健次郎は40歳で理科大学長となり、さらに明治34年、48歳で帝国大学総長に選ばれた。


山川は東京帝国大学総長を、日露戦争講和を巡る七博士事件で辞任する。が、乞われて九州帝国大学の初代総長になり、60歳で再び請われて東京帝国大学総長に復帰、61歳では沢柳事件の収拾のために京都帝国大学総長を兼ねたのだから、大変な人であったといえるのだろう。

荷風と静枝2007年08月25日 12:26

「荷風と静枝――明治大逆事件の陰画」
「荷風と静枝」

「明治大逆事件の陰画」というサブタイトルを持った「荷風と静枝」という本に出会った。


塩浦彰さんという、新潟の高校教員などを最近定年で退職された人が著者。石川啄木と妻節子らを対象とした実証的な研究などをしてきた、と著者紹介にはある。07年4月20日第1刷、洋々社発行。2400円。


なにかソソラレル標題。荷風は分かるが、静枝とは――。「文学芸者」という紹介なら分かりやすい。芸妓時代の名前が八重次。本名は内田ヤイ。荷風が唯一、妻とした女性で、後には新舞踊の開拓者として「藤陰流」を創設している。後半生「藤陰静枝・静樹」としてはよく知られ、評価も高い。


筆者によると、静枝の前半生については、生い立ちから荷風との出会い前を語る資料は皆無に等しく、掘り出した少々の新資料も少ない、という。


それでは「大逆事件」と荷風は――。


明治44年(1911)1月18日。それが大逆事件の判決公判の日である。筆者は、この日、永井荘吉(号・荷風)が「巴家八重次」という芸妓に添え書きした絵葉書に着目している。


「度々電話をかけましたがお帰りがないので博物館内の古い錦絵を見歩いて居りますこの暖かさでは江東の梅も間がありますまい近い中亀井戸へゆきませう さう吉より」


荷風が、この日の判決内容までを承知していたかは分からないが、この日が判決の日であることは先刻承知であった。当時の荷風は、被告たちを収容していた牛込区富久町の「東京監獄」に隣接している大久保余丁待ちに住み、大審院での予審や公判のたびに被告たちを護送する囚人馬車を、慶応義塾への通勤途中に目撃していることを、後年の作品「花火」に述べている、という。


で、これまでに作品「花火」で語られている荷風と大逆事件についての関連部分を孫引きしておこう。


明治44年慶応義塾に通勤する頃、わたしはその道すがら折々四谷の通りで囚人馬車が五六台も引続いて日比谷の裁判所の法へ橋って行くのを見た。わたしはこれまで見聞した世上の事件の中で、この折程云うに云われない厭な心持のした事はなかった。わたしは文学者たる以上この思想問題について黙していてはならない。小説家ゾラはドレフュー事件について正義を叫んだ為め国外に亡命したではないか。然しわたしは世の文学者と共に何も言わなかった。わたしは何となく良心の苦痛に堪えられぬような気がした。わたしは自ら文学者たる事について甚だしき羞恥を感じた。以来わたしは自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引下げるに如くはないと思案した。その頃からわたしは煙草入れをさげ浮世絵を集め三味線をひきはじめた。わたしは江戸末代の戯作者や浮世絵師が裏がへ黒船が来ようが桜田御門で大老が暗殺されようがそんな事は下民の与り知った事ではない――否とやかく申すのは却て畏多い事だと、すまして春本や春画をかいていた其の瞬間の胸中をば呆れるよりは寧ろ尊敬しようと思立ったのである。


かくて大正二年三月の或日、わたしは山城河岸の路次にゐた或女の家出、三味線を稽古してゐた。(路次の内ながらささやかな潜門があり、小庭があり、手水鉢のほとりには思いがけない椿の古木があって四十雀や藪鶯が来る。建込んだ市中の路次裏には折々思いがけない処に人知れぬ静かな隠宅と稲荷の祠がある。)その時俄かに路次の内が騒がしくなった。溝板の上を駆け抜ける人の足音につづいて巡査の佩剣の音も聞こえた。それが為か中央新聞社の印刷機械の響も一しきり打消されたように聞こえなくなった。……其後から近所の出前持が斜向の家の勝手口で国民新聞焼打の噂を伝えてゐた。


――長くなったが、「花火」の一節。前段の大逆事件の回想は、かつて荷風自身にも被害をもたらした幾多の言論弾圧の遂行者で大逆事件の黒幕たる桂内閣を、結果的に総辞職させることになる民衆の放棄事件を記録する後段へと進むのだが、その2回想の接点に八重次の姿が存在している点に注目しなければならない、と筆者はいう。


そして荷風が「江戸戯作者のなした程度まで引下げる」と述べた「思案」は、けっして外遊以前の「江戸趣味」を復活させることではなく、帰国の明治41年から翌年にかけて続々と書かれた「あめりか物語」「ふらんす物語」「新帰朝者日記」は、自ら体験した西洋を語る作品であったが、尺八に耽溺した17歳以来、30歳に至る彼我の文化体験を総決算するかのように、見時42年暮れから43年2月まで、「冷笑」が東京朝日新聞に連載される。「文化批判と江戸趣味との調和の試み」「冷笑を通貨して荷風の立場は定まった」と評価されるこの作品は、過去の「江戸趣味」への清算を意味するものであり、大逆事件にかかわるとされる<戯作者的傾向>の原点は、この作品の思想に求められねばならない――と。


そして筆者は、以下のように芸妓八重次と、「大逆事件の陰画」をなぞってみせる。


「花火」で荷風が述べた「戯作者」に事故を「引下げ」たという契機は、大逆事件そのものに存するのではかう、「冷笑」の成立に思想変革の原点があり、その後の八重次との遭遇が、その実践に踏み出す大きな要因となった。当時の新聞・雑誌や文学者たちに「文学芸者」と喧伝され、自立心の高かった八重時の生そのものに添うことによって、荷風は<戯作者>としての国家権力への反抗の仕方を、身につけていったのである。大逆事件判決の日に、荷風が八重次に「度々電話をかけ」たのは、けっしてたまたまのことではなかった、荷風周辺に取りざたされた数多の女性たちのなかでも、芸妓八重次の存在理由は重いのである。


研究者の思い入れは強ければ強いほど、研究対象の像を彫り深いものにしていく。多少の彫り過ぎや間違いがあっても、その熱意こそが史実を掘り起こす「熱源」なのだろうから。