蟹のつぶやき kanikani

江戸の絵の愉しさって2008年02月07日 08:12

江戸の絵の愉しさって


岩波新書843「江戸の絵を愉しむ――視覚のトリック」榊原悟著

先日、日本画と西洋画の違いについて、国立新美術館のトークに絡めて書いた。
その際の「違い」は、描くのに使う油絵であるのか、顔料や墨を使うのか、と言った技術的なことや、
たまさか入学した大学での「学科」や展覧会、所属する団体による、などという、現在の画壇的な視点での話だった。http://chagale.blogspot.com/2008_01_01_archive.html


この本は、それとは違って、江戸時代やそれ以前を含めて、日本の絵画の特質を抉り出して教えてくれ、興味深かった。
「扉」には、こう書いてある――

襖を閉めると飛び出す虎! 江戸時代、絵画の世界はアッと驚く遊び心にあふれていた。視覚のトリック、かたちの意外性、「大きさ」の効果――。絵師たちの好奇心と想像力が生み出した、思いもよらない仕掛けを凝らした作品を浮世絵・戯作絵本から絵巻・かけj区・襖絵にいたるまで紹介し、新しい絵画の愉しみかたを伝える。図版多数。

筆者は'48年愛知県生まれ。早稲田大学院卒、サントリー美術館主席学芸員を経て群馬県立女子大教授。日本絵画史専攻。

面白かったのは、一つは、日本の美術が多く、「開く」という動作を伴い、それが鑑賞に当たっても、
物理的な「時間」の要素が加味される、という点の指摘。
つまり具体的には、一つは「絵巻物」。また「掛け軸」。いずれも、鑑賞に当たって、軸なりを繰ることによって、その中に「絵」がある。
繰るなかに、時間的な遷移があり、物語も展開する。
典型的な例としての、鳥獣戯画。そこの線、フォルムもさることながら、どのように鑑賞されるか、という視点だ。

筆者が冒頭に書いているのは、例えば狩野派などの障壁画が、展覧会で「平面的」に展示されることの誤り。
西洋画の二次元的な広がりとはまた一味違う「障壁画」では、その「絵」が何枚かある障壁画、襖絵などの関連のなかで、どのような位置を占めているのかを無視しては、製作者の意図も見えなくなってしまう。襖絵は、襖を引いたときに、どの面が見るものに残されることになるのか、どの面が消えてしまうのか――その点についての、これまでの展覧会での展示方法に問題があったのではないか、という。

それに「視点」の遊びについても書いている。「見立て」という、日本の芸術の特質ともいえる芸の話だ。
例えば、歌川国芳の「影絵」。「何に見えますか?」というクイズみたいだが、絵解きには「金魚にひごいっ子」ある。
それが、実は「狩人に狸」であった――っていう趣向。文字だけで説明をすることは不可能に近いが、
視点が微妙にずれたり、人びとがもつ文化の中で、当然と思う組み合わせにドンデン返しの手品のタネ明かしが目の前で行われる(正確には、冊子の表と裏のような位置に、影絵と光が当たった実体が描かれるという手法だ)

嵌絵であるとか、日本人が鎖国をしていた時代に醸してきた文化、さらに細い外国からの舶載の道を辿って、新たな工夫を生み、それを耕した土壌に花咲かせる……。そんな営みが、かつてあったのだな、と改めて感じさせてくれた。

象は鼻が長い2008年02月18日 07:14

象は鼻が長い.html 象は鼻が長い

象は鼻が長い


日本語には主語が必要なのか?
日本の文法はS+V+O と言った具合になっているのか?

私たちは「国語」の文法を、
英語の文法を習い始めた後に、英語の文法のように、習ってきた。
そんな気がする。恐らく、そうなのだ。

「主語を抹殺した男――評伝 三上章」(金谷武洋著、講談社)は
そんな「国語」の文法を、日本語の文法として考えなおそう、と
「土着主義」の「街の語学者」が闘い、倒れていった姿を追った評伝だ。
< 筆者の金谷は、’51年に北海道に生まれ、函館ラサールから
東大に進み、国際ロータリークラブ奨学生としてカナダに留学、
そこでカナダで「日本語を教える」ことになる。
そこで疑問にぶつかる。
「ジュ・テーム」を日本語でいえば「私はあなたを愛しています」。
だけど、本当に日本語で、そんなことを言うだろうか?
「愛しています」ということはあっても、だ。
文法的には合っていそうなのに、実生活では言わないに違いない。
主語は省略されているのか?

疑問の前に立ち止まっていた筆者に解決の糸口を与えたのが
三上章の文法。「象は鼻が長い」という妙なタイトルの本と
『現代語法序説』という文法の入門の本だった、という。

日本語は、英語やフランス語の語法とは構造が異なる――という主張だ。
英語やフランス語の動詞は、主語が決まらないと、決まらない。
三人称・単数・現在形といった動詞の活用には、仮に省略されたり、
隠されたとしても、主語の存在が不可欠だ。
これに対して、日本語に、その必要があるのだろうか。
「は」「が」という助詞が、「主語」につかなければならにのか?

三上の文法を研究して、金谷は「日本語に主語はいらない」
さらに「日本語文法の謎を解く」「英語にも主語はなかった」との
成果を生み出していく。英語やフランス語にしても、
現在は、必ず主語が必要だが、西欧古典語には主語がなかった、との
知見に到達する。

そこで、金谷は、三上の評伝を書くに至る。
’03年(明治33年)、広島県の甲立という田舎に生まれ、土地の素封家にして
「天才」としての育ち方をしていく。大叔父の和算の研究家として知られ
「文化史上より見たる日本の数学」で世界に和算を知らしめた
三上義夫を持ち、自身も理数系へ進んでいく。
山口高等学校に主席で入学するものの、数ヶ月で自主退学、京都の三高に進む。
ここで後の京大山脈と称される、今西錦司、桑原武夫らと切磋琢磨の時代を送る。
今西理論の源流にある「土着主義」は三上に啓発されるところが大きかった、という。
大学は東京へ出て、工学部の建築学科を卒業、台湾総督府に就職する。
が、これも辞して朝鮮、日本の旧制中学の数学教師を歴任する。

この台湾時代に、三上は早川鮎之助の名前で処女論文「批評は何処へ行く?」を
書き、これが雑誌「思想」に投稿し、入選した。
この時期、三上にもう一つの出来事があった。
ゴーゴリの『狂人日記』の英訳を読んでいて「私がその王様なのだ」と直訳できる
ロシア語の文章が「I am that King!」と英訳されているの読んだときに
心中にこう叫んだという。「この”私が”は主語ではない。補語だ!」と。

三上の文法との出会いが、ここに始まったのだという。
評伝は、三上の歩みに寄り添いながら、時に強引な我田引水を含みながらも
その思い入れがよく伝わってくる。

三上の新しい文法の提言は、歯牙にもかけられない。
「学校文法」は、東大の橋本文法の流れが揺らがず、なお三上への反論すらない
いわば黙殺だった。これが三上への、さらなる苦痛となっていく。
一度目のスランプを救ったのは、金田一晴彦だったが、二度目には
芥川龍之介と同じ睡眠薬で辛うじて不眠を乗り越えていた中で、狂気に近くなる。
支え続けた妹の茂子さんが不在であったボストンで限界を超えてしまった。

文法の細かなことは分からないが、
素朴に思っていた、英文法から国語の文法を借りてくるような違和感への
答えであるようには思う。

筆者の一生懸命さに、最後まで
読み通した。