蟹のつぶやき kanikani

自動販売する機械2008年03月02日 11:40

自動販売機の文化史

自動販売機の文化史


ひとが物に興味を持つ持ち方はさまざまだ。
その持ち方自体が、また興味深い。
自動販売機が、日本でなぜ世界の他の国――アメリカを含め――を凌ぐほどの隆盛を極めているのか。
それ自体が、文化史の興味の対象だろう。

「自動販売機の文化史」 (鷲巣力著 集英社新社B0187)


初めにビックリした数字がある。自販機による売上げ金額である。
日本の2001年。7兆523億円。世界一なのだが、
その額は、コンビニエンスストアの年間売上げ7兆1420億円に匹敵する、ということだ。

都会でのコンビニの稠密な分布と、繁盛振り、同時に客が入らないとみれば直ちに廃業……。
コンビニ業界の最近の動きをみていると、これ以上の効率のよい売り場はないようにさえ見えるのに
それに匹敵するだけの売上げがある、ということは、無人ながらどれほどの自販機が置かれているか、ということにほかならないのであろうから。



文化史というだけあって、自販機の歴史にも触れている。
最古の自販機の記録は――アレキサンドリアのヘロンが記述している、アレキサンドリアの神殿にあったといわれる、「聖水自動販売機」。
上部の口から5ドラクマ貨幣を入れる。
投じた硬貨が受け皿に落ちると、その重みで受け皿が傾く。すると「てこ」が働き、水の出口を覆っているふたが上がって、その間に水が蛇口から出る仕掛け。少量であるが、開いている間に水が出た、らしい。本当に、その機械があったのかどうかは定かではないが……。



日本の場合、西欧の技術の系譜とは別に、鎖国時代にも独自に技術が開発され、洗練されてきた「からくり(機工)」を使ったものが多かったようだ。
東京・浅草の小野秀三、山口県赤間関の俵谷高七などの名が残っている。

謎ながら実際に「現役」の形跡があるもにのに岩手県二戸市の久慈酒造会長宅で昭和62年に見つかった古い酒自動販売機。五銭白銅貨を入れるとぜんまいでコックが開き、備え付けの器に約1合分の酒が出る、という仕組み。


日本の自販機が、これだけの隆盛を見る基礎になったのには、コカコーラの自販機が果たした役割が大きかったようだが、その後、コーヒー缶の発明以降、その「ホット オア クール」から「ホット アンド クール」への進化ということが大きかったようだ。


なぜ他の国で、日本ほどに自販機が設備されないのか。例えば、英国などのヨーロッパでは、ラダイト運動があったなどの機械観や、硬貨の体系などもあげられる。と同時に、「路上に設置しても安全であるか」という治安面での問題や、対面販売などの良さ、と言った社会的な要因が、実は一番、大きいのかもしれない。

なんでも、いろいろな角度でアプローチして調べてみると、文化史的にも興味の尽きない背景が潜んでいるものだ。

最終講義.2008年03月16日 10:17

最終講義 春は巣立ちの季節。
学園で学生が卒業すれば、先生も定年で次の生活へと巣立つ。

先週土曜日(8日)午後、東京・世田谷の武蔵工業大学で
安田忠郎教授の定年記念講演が行われた。
おそらく同キャンパスの中でも一番収容能力がある
階段教室に約120人の同僚・関係者・学生が集まった。

講演は、事前に用意されたレジュメ(無くなってしまったが……)に
したがって進行した。
まず、パワーポイントを使って、生い立ちを含む
経てきた歴史を見せた。

北海道・岩見沢の高校から札幌の高校へ転校。
成績は小学校から高校まで最優秀を通し
「東大法学部」が約束されていた――と衒いもなく
なおかつ、当時の学力テストの成績まで見せながら……

その「東大法学部」受験の前夜、肺炎になり、受験を断念。
駿台予備校に入るが、ここでも「成績優秀」の表彰を受け
あほらしくなり、3ヶ月でやめ、以後、10の指に余る仕事をする。
いわく、新聞配達から水商売まで。

ちょうど60年の安保は終わり、政治の季節から高度成長の時代。
だが、一方で米国ではケネディーが暗殺されるという事件があった。
1963年11月9日。東では国鉄東海道線の鶴見事故が、
同じ夜、西では三井三池炭鉱での大事故が発生した。

高校時代の友人に「ケネディー暗殺」のショックを語っていた彼に
その友人から手紙が来る。「ケネディーという1人の死を
それほど悲しむあなたに、三池で死んだ450人とケネディーと
同じように思えるのか」という問いを込めて。

再び「学」と「労」の両立を求めて、大学を目指す。
しかし東大法学部は遠かった。入ったのは慶応大学の経済学部。
入ってみて、そこに「学問」がないことに、「東大」でないことに
失望し、幻滅する。私は、そこで彼と会い、2年間を過ごした。

その中で、経済思想史の講座の教壇に立っていた白井厚教授(当時助手から助教授に)の
格好良さに惚れ込む(表現が余りに俗っぽいが……)。
当時、イギリスのウイリアム・ゴドウィンからアナーキズム研究をしていた。
ゼミは白井ゼミを選ぶ。「河上肇に於けるマルクス主義――科学的真理と宗教的真理」が
卒業論文の題名だ。

卒業までに、社会科の教員免状を取得する。
教師であった父親からのアドバイスでもあるが、この実習で自らの中の
教員への適格性のようなものも感じたようだ。

卒業と同時に、郷里・北海道の北炭に就職し、幌内炭鉱に着任する。
石炭産業が日本のエネルギー政策の舵取りで、表舞台から消え去ろうとしている時だ。
ある日、彼はヤマに潜っているその時に、あの十勝沖地震に遭遇する。
1968年5月十勝沖地震。地底で「死」を覚悟しながら、必死で地底からの脱出をした。

ハイデッカーの「生」と「死」の哲学が、理念だけの問題でなく
生の中に、死がすぐに隣り合わせである、ということを実感したという。
そして、その恐怖感から、翌69年、炭鉱を去った。


再び大学へ。教育学を学び、あちこちの大学で教壇に立つ。
そして28年間、武蔵工業大学の専任講師から助教授、教授となり、
文科系の専攻ながら、この大学の工学部長を勤めた。
大学の変革、というのが、この大学においても大きなテーマであったのであろう。
そして少子化の社会の中で、大学が置かれている存在意義のようなところまで、
話はすすんでいくのだろう。

この武蔵工業大学の生活の中では、ニューヨークへ留学した1年間というものが、
彼にとって大きな成果を、もたらしているようだ。
日本とは何か、その良さ、具合の悪さ――というテーマは、
その生活の中で、そこを訪れていた他国の学生や同僚とのふれあいの中で
輪郭がはっきりとして来ているのかもしれない。

新たに何かを書くということであるから、期待をしておこう。



移民受け入れの智慧袋2008年03月22日 14:18

移民受け入れの智慧袋――多文化・多言語社会の現状と課題から.html

移民受け入れの智慧袋――多文化・多言語社会の現状と課題から


「移民問題」についての話を聞いた。
スピーカーは、大東文化大学准教授の川村千鶴子さん。
そもそもの学者ではないが、新宿百人町の出身。その「地の利」で、地域に住み、暮らす韓国・中国を初めとする多国籍の人びとと、関わりながら育ったようだ。そして留学生の世話などを糸口に、NGOを立ち上げたことで、新宿区の窓口との遣り取りから、さらに一歩進んで日本政府の「出入国管理の問題」にまで関わるようになった。そこに大学からの勧めがあって、他民族との共生問題や、異文化間教育などを専攻対象にするようになってきた、というのがスピーカーの輪郭。「多民族共生の街・新宿の底力」という著書がある。

雑談風の異民族問題の話から。大東文化大学というと、連想するトンガ出身の選手。駅伝、ラグビーに頑張る姿がある。トンガからやってきた留学生の世話を焼くようになったことが、彼女を同大学と結びつけるようになった。トンガは、南太平洋の島国。それこそ、何もない島だという。大相撲の武蔵丸の、そもそもの出身がトンガだという。

そこの「正装」は、男性でもスカート状のものに、王様は腹のまわりに茣蓙のようなものを巻いていたらしい。その留学生たちが、その正装をして街を歩いた後、彼らの住まいに「オカマ」という落書きが大書された、という。

そんなトンガ。国にこれという産業があるわけでなく、出稼ぎ仕送りなどが大きな収入源になっている貧しさ。だが、そこから留学生を受け入れ、学んで人が帰っていく。双方の国にとっても良いことだ。他国と理解しあうためには、留学生を受け入れることが有効である――と。

話は先へ進む。留学生の受け入れは良い。しかし、出稼ぎ目的を疑われるような中国留学生のケースをはじめ、日本で学ばず、専らアルバイト労働、金になる仕事、不法残留……、となっていくと、留学問題は移民の問題と境を接している。一定の条件で入国、受け入れをすることは、主権国家として大事なことである。


外国人の入国に関しては、難民の問題もある。難民の受け入れに関しては、日本も国際条約を批准しているが、その「難民」として認定するに当たって、どのような状態が「難民」であるのかを、定義するにあたっての困難がある。法務大臣なり入国管理事務局の判断しか、その物差しがない。

入国した外国人の犯罪も、問題視された、議論になる。本当に「第三国人」発言の石原都知事がいうように、在日外国人の犯罪率が高いのか。犯罪統計というものは、自然統計とは異なり、「犯罪」の定義と検挙の恣意性とによっても、偏った見方の補強材料になりかねない。

だが、どうやらこの国には、「移民法」はないらしい。
日本にあるのは「出入国管理及び難民認定法」で、その出自をみると昭和26(1951)年で、GHQが米国の移民法を手本に作った所謂「ポツダム政令」で、当初は外務省が所管、独立後に法務省に管轄が移った。それというのも、当初の出入国管理の対称が、在留の中国・朝鮮籍の人たちであったことと深く関わっているようだ。(この項はスピーチ外)

法務大臣の特別残留を認める条件、というものが恣意的なものであることが一番の問題であろう。不法残留にしても、現実として何年を超えて残留している場合に、その現実を追認するのか。生まれた子どもが送還された母国語も話せないような場合には認められるのか……。そこに一律の物差しはない。残留者は入管の目を恐れ、怯えながら不法状態を続ける。

議論となるのは、将来の日本の姿だ。それも焦眉の急。少子化がますます進む日本で、真剣に考えれば考えるほど、よその国から若い人に来てもらい、助けてもらわなければ、われわれの介護の問題ひとつをとっても、困り果てる日がくるのではないのか、と。

他国から人を移入しようとする移民の方向と、多民族を排除しようとする内向きの方向。これは私見では、経済社会の動向と密な関係にあるし、社会が逼塞して欲求の吐けどころを失っている時には、ナショナリステックな振れのなかで、排外的な力が作用してきたのだと思う。

どうすれば良いのか。スパっとした結論がある訳ではない。いずれにせよ、日本という国が、そこに暮らしている我々が、移民について、どう考えていくか。その議論の中から、その考え方を可視的にするためにも自前の移民法を作るべきなのかもしれない。

同時に、どのような社会になるにせよ、民族や国籍の違う人が隣にいること、その理解が共生につながっていかなければ、摩擦が増えるばかりということにもなりかねまい。


花見とネグリ2008年03月30日 12:00

花は満開。ネグリとデングリ
上野を通ったので、ひとつ花見がてら、美術館でもひやかそうか、と下車した。
ところが公園口でビックリ。改札を出るのに長蛇の列。それも何重にもなって。
長い列は、駅構内のどの女性用のトイレにも、延びていた。花見の前かな?後かな?

そんなことで、公園口は断念して、不忍口に回る。駅の誘導は「入谷口」からの迂回だが、それは余りにも遠回りだもの。こちらも公園口ほどではないものの、すごい人の波だ。西郷さんの銅像の下辺りまで行くのにも、ラッシュアワー状態だ。階段には似顔絵書きが各段毎に客に対している、と言う感じ。

公園の桜は、ほぼ満開。広小路側から動物園方向へ進む。大阪・造幣局ではないが、「通り抜け」状態。立ち止まれない。たまに家族や花にカメラを構える人がいると、たちどころに渋滞の輪が広がる。それでも、いちおう「流れ」が確保されている。よく見ると、路面のあちこちに「道路につき宴席禁止」の貼紙が連なっている。「宴席」は、道路が広くなる辺りから展開されていた。朝早くから、あるいは何日か前から、場所取りをしたのであろう「大手会社の御席」と思われるスペースでは、数人の若者が、若者頭の指示を受け、宴会開始の段取りをはじめており、片方では、すでにコンロの肉を囲んで、メーターをあげているグループがあり……。

不思議に思ったのは、かなりの外国人グループが、シートは敷いているものの、地面に座って輪を描いていることだ。大勢の人の群れの中だから、外国人の姿があってもおかしくはないのだが、なにか不思議な感じを受けるのは、見ているこちらの側に、アル何か、なのだろうか。

都立美術館で6日までやっている「ルーブル展」を覗くべく、地下の入り口へと入ってみる。オカリナの演奏をしている女性がひとり。懐かしい「ネバー・オン・サンデー」を演奏していた。そこから見ると、何とナント、ここも長蛇の列。あっさりと「ルーブル」に見切りをつけた。

都立美術館を回り込むと旧音楽学校の奏楽堂。この周辺は整備をしたらしい。一時のブルーテント群も見当たらず、木立も刈り込まれたのか、不思議な明るさに変わっていた。芸大へ向かう。何かの展覧会を開いていたかな、と。行きがけの塀に「ネグリさんとデングリ対話」というヘンチキリンなチラシが貼ってある。29日、30日芸大美術学部構内、とある。もう一方のチラシに「アントニオ・ネグリ氏講演会――新たなるコモンウェルスを求めて」という東大安田講堂での講演とシンポジウムの案内。ネグリ・ふー?

チラシなどによると、イタリアのマルクス論を中心とした政治哲学の研究者。また、イタリア全土を揺り動かした女性・学生・貧民・失業者等、社会的に弱い立場に置かれた人びとによる新しい社会運動「アウトノミア(自立)」を理論的に統括した社会派知識人。「赤い旅団」によるイタリア元首相アルド・モロ誘拐暗殺の嫌疑をかけられ逮捕・起訴される。その後、事件への直接的な関与はなかったことが判明するが、一方で、その体制批判的な言論活動による政治活動への影響力の責任を問われ有罪に……。獄中の立候補、当選、議員特権の剥奪、フランス亡命……。ドラマの主人公に相応しい、ちょっと怪しげな人物。国際、文化会館が今回招待して、イベントを企画した。芸大のそれも、この企画の一つ。ところが、ネグリは来なかった。21日の各新聞に、ネグリ氏が来日を断念、との記事が載っていた。実際とは、彼が断念したのではなく、日本政府がこの「危険人物」の入国を拒否したに違いない。

ということで、ネグリ氏については分かったが、芸大の構内に入ってみても、何の企画は一向に理解はできなかった。中庭では、即興のペインティング。奥のステージではドラム、エレキ、ベースの3人が演奏を始めた。ボリューム最大、どこか中東風のフレーズが入ったり……。さらに校舎を進むと、「身体と衣料のポイエーシム」とかいうシンポジウムの案内があるが、主催者と訪問者が少し短めの飛び縄を跳んでいる。映像プログラムというのは、ネグリ氏関連から、三里塚あり、「山谷(やま)――やられたらやりかえせ」といった題目もある。入ってみて暗い闇に目が慣れると、2人ほどが見つめていたスクリーンでは沖縄の「やんばるの森にヘリパッドはいらない」という米軍のヘリパッド建設中止を求める運動を撮った映像を流していた。スクリーンでは叫んでいた。「沖縄は1879年に日本政府の植民地にさせられ、以来、植民地として扱われてきた……。われわれはこれに反抗するのだ」、と。

久しぶりに70年代の残滓、香りをかいで中庭に戻ると、庭には古びた、しかしドッシリと根を張った木が聳えていた。何という木だろう。上野の花見とは、遠いところまで来た、という感じだった。