蟹のつぶやき kanikani

最終講義.2008年03月16日 10:17

最終講義 春は巣立ちの季節。
学園で学生が卒業すれば、先生も定年で次の生活へと巣立つ。

先週土曜日(8日)午後、東京・世田谷の武蔵工業大学で
安田忠郎教授の定年記念講演が行われた。
おそらく同キャンパスの中でも一番収容能力がある
階段教室に約120人の同僚・関係者・学生が集まった。

講演は、事前に用意されたレジュメ(無くなってしまったが……)に
したがって進行した。
まず、パワーポイントを使って、生い立ちを含む
経てきた歴史を見せた。

北海道・岩見沢の高校から札幌の高校へ転校。
成績は小学校から高校まで最優秀を通し
「東大法学部」が約束されていた――と衒いもなく
なおかつ、当時の学力テストの成績まで見せながら……

その「東大法学部」受験の前夜、肺炎になり、受験を断念。
駿台予備校に入るが、ここでも「成績優秀」の表彰を受け
あほらしくなり、3ヶ月でやめ、以後、10の指に余る仕事をする。
いわく、新聞配達から水商売まで。

ちょうど60年の安保は終わり、政治の季節から高度成長の時代。
だが、一方で米国ではケネディーが暗殺されるという事件があった。
1963年11月9日。東では国鉄東海道線の鶴見事故が、
同じ夜、西では三井三池炭鉱での大事故が発生した。

高校時代の友人に「ケネディー暗殺」のショックを語っていた彼に
その友人から手紙が来る。「ケネディーという1人の死を
それほど悲しむあなたに、三池で死んだ450人とケネディーと
同じように思えるのか」という問いを込めて。

再び「学」と「労」の両立を求めて、大学を目指す。
しかし東大法学部は遠かった。入ったのは慶応大学の経済学部。
入ってみて、そこに「学問」がないことに、「東大」でないことに
失望し、幻滅する。私は、そこで彼と会い、2年間を過ごした。

その中で、経済思想史の講座の教壇に立っていた白井厚教授(当時助手から助教授に)の
格好良さに惚れ込む(表現が余りに俗っぽいが……)。
当時、イギリスのウイリアム・ゴドウィンからアナーキズム研究をしていた。
ゼミは白井ゼミを選ぶ。「河上肇に於けるマルクス主義――科学的真理と宗教的真理」が
卒業論文の題名だ。

卒業までに、社会科の教員免状を取得する。
教師であった父親からのアドバイスでもあるが、この実習で自らの中の
教員への適格性のようなものも感じたようだ。

卒業と同時に、郷里・北海道の北炭に就職し、幌内炭鉱に着任する。
石炭産業が日本のエネルギー政策の舵取りで、表舞台から消え去ろうとしている時だ。
ある日、彼はヤマに潜っているその時に、あの十勝沖地震に遭遇する。
1968年5月十勝沖地震。地底で「死」を覚悟しながら、必死で地底からの脱出をした。

ハイデッカーの「生」と「死」の哲学が、理念だけの問題でなく
生の中に、死がすぐに隣り合わせである、ということを実感したという。
そして、その恐怖感から、翌69年、炭鉱を去った。


再び大学へ。教育学を学び、あちこちの大学で教壇に立つ。
そして28年間、武蔵工業大学の専任講師から助教授、教授となり、
文科系の専攻ながら、この大学の工学部長を勤めた。
大学の変革、というのが、この大学においても大きなテーマであったのであろう。
そして少子化の社会の中で、大学が置かれている存在意義のようなところまで、
話はすすんでいくのだろう。

この武蔵工業大学の生活の中では、ニューヨークへ留学した1年間というものが、
彼にとって大きな成果を、もたらしているようだ。
日本とは何か、その良さ、具合の悪さ――というテーマは、
その生活の中で、そこを訪れていた他国の学生や同僚とのふれあいの中で
輪郭がはっきりとして来ているのかもしれない。

新たに何かを書くということであるから、期待をしておこう。