蟹のつぶやき kanikani

そんなに急いでも2007年03月23日 10:55

糖尿病の疑いがある、専門医の診察を、との健診結果を受けて3ヶ月。 先月になって、やっと専門医の門を叩いた。 専門医といっても、会社の診療所。慶応大学の医局から交代でやってくるヒヨッコ医者なのだが、私の当たったのは30代のキタナイ女医。 午前10時半からが診療の時間なのだが、診察室に到着するのが、前回は10時28分、きょうは10時32分。これでは10時半から直ちに患者を診察する余裕もあるはずがない。そのうえカルテを見ながら、この女、指先にボールペンを乗せてクルクルと回しやがる。この年代の多くが無意識にやる仕草だが、それでなくともナーバスになっている患者の身になると、このクセも妙に神経を逆撫でする。

先月の受診は、丁度、私自身の誕生日を契機にしたものだった。 こちらの申告を聞いて女医のまず発した一言は「すぐに診察・要治療、とあるのに3ヶ月も放っておいたの。信じられない」。 それはそうかも知れないが、「境界域」といわれていた数値からは一段と高い数値が健診で出ているのだから、こちらも「放ってはおけない」と思ってはきた。しかし、一方では、それだけに、いっそう専門医の敷居は高いというものだ。

ともあれ、その際に採血した検査の結果が1週間後に判った。 因みに許容の基準値を超えたものにグリコース(空腹時血糖値:70-109)が120、HbA1c(ヘモグロビンA1c:4.3-5.8)が6.7.といったところ。1日1600Kcalの食餌制限で、保健師さんの指導を受け、2ヶ月くらい後に改めて検査を、となった。

そもそもは、酒の飲みすぎと、タバコを止めてからの間食が血糖値を上げている元凶、と勝手に思い定めているから、とりあえず以前は週に1度か10日に1度だった休肝日を、逆転させて通常は休肝日としつつ、行事だけはちょっと飲む、ことに方針を変え、また保健師さんの指導に従うことにした。 そこで1週間。保健師さんに食事の方法や禁酒の状態を報告したところ、「優等生」。検査を早めにしてもらっても大丈夫ではないか、という話になった。 そして先週、腹をすかせて検査をし、きょう結果を聞きに女医を尋ねた、という訳だ。 結果は、空腹時血糖値121、HBA1c6.8.1ヶ月前になる前回より数値的には悪いくらいだった。「4月くらいに再度、検査を、といったでしょう。2-3ヶ月の間は、がんばっても急に数値がよくなるわけでもなく、逆に数値は足踏みだったり悪くなる。だから患者さんのモチベーションを考えても2ヶ月くらいの期間をあけて検査した方が良いといったのに……」

そんなに急いでも……。よい結果を期待して、急いで再検査したものの、なんだか逆効果。残念でした。

歩け歩け2007年03月24日 23:52

休みの朝も、朝食を食べた後は運動を。

10時10分に家を出た。愛犬が昨年8月28日に亡くなり、朝晩の犬の散歩の習慣がなくなって半年余りが経った事に改めて気付かされた。先日まで急ごしらえの保育園施設があった大学の寮の庭が、いつの間にか空っぽになりつつある。

横浜商科大学は春休みなのだろう、学生の姿はない。ここの図書館はひょっとしたら使えるかもしれない。日々、家で時間を過すより、物理的に家の外へ出かけて「仕事」をするほうが、よいかもしれない。

神の木公園を右前方下に見ながら入江方面へ坂を下る。次々にできているマンションに食い込むように「猿田彦神社」の祠だけがチンマリと鎮座している不思議な光景に出会った。

大口商店街という、都会の商店街としては元気な商店がを歩く。この町は物価が安い。その中の八百屋はことに。店のカゴにジャガイモ、キャベツ、新玉葱、ベビーリーフ、胡瓜、大根、葱にイチゴまで次々に放り込む。こりゃあ買いすぎたが、持って帰れるかなと、聊か不安に。レジの会計は1530円。背負っていったリュックを見て、レジ袋を渡されなかったが、リュックには到底納まりきらず、袋を一枚所望したら、5円だった。

重いリュックを背負い、レジ袋を提げて、国道を渡って商店街を先に進む。JR横浜線が大きくカーブするのに伴って、商店街もカーブして途切れた。JRの下を横切る地下通路があった。通路を地上に出ると、そこは京急子安の駅だった。

京急とJRに挟まれた細いデルタ地帯に、住宅が並んでいる。「この先行き止まり」の看板が出ていた。この手の看板、標識は全くの善意で本当に行き止まりの場合と、住宅の間に他の通行人が入り込まないようにと書かれる場合もある。もし別の道に通じているなら、と淡い期待を持って進んでみた。100メートルほどの所に、更に「行き止まり」の看板。右手に京急の線路が垣間見え、有刺鉄線が張られて「乗り越えるな」との注意書き。それでも行き掛かり上、さらに進むと、本当にドン詰まり。道が下ってきているのか、JRと京急の線路がせり上がってきているのか、ドン詰まりの場所は、海面下のオランダか、輪中の内側のようだった。

引き返し、産業道路に沿って鶴見方面へ進み、ガードをくぐって、やっと再び入江方面に戻った。そのままではつまらないので、細い右手への道を進む。JR子安、京急新子安に向かい、オルトへ抜けるはずの裏道。鄙に稀な住宅があった。昔の海辺の別荘であったような風情の門構え、住宅の結構だが、表も裏口も郵便受けをガムテープで閉ざし、ちらと見えた住宅の外廊下には引越し仕度でもあるように括られた書籍が見えた。

歩くこと2時間10分。昼過ぎに家へ戻った。

注文も相撲のうちなり春弥生2007年03月25日 22:06

大阪での春場所千秋楽、白鵬が優勝決定戦で横綱朝青龍を破り、二度めの天皇賜杯を手にした。

勝負は立ち合いの一瞬で決まった。白鵬が突っ込んでくる横綱の頭を上から押さえ込み、朝青龍も堪えきれずに片手を土俵の砂に泳がせ、勝負あった。

その瞬間――白鵬は、してやった喜びを、丸めた唇から吐き出す息で示し、一方の朝青龍は、思わず砂についた片手を慌てて引っ込め、苦笑いを浮べ、その表情が顔に張り付いていた。観衆からは座布団が土俵めがけて飛んだ。

前の日、本割りで対戦して共に二敗に並んだ両者は、千秋楽で白鵬が琴欧州、朝青龍が千代大海を破り、予想通りの決定戦に駒を進めた。前日は白鵬が立ち合いで双差しを狙い、体勢としては有利に運びながら土壇場で朝青龍の俊敏な反射神経にしてやられ、土俵を先に割ってしまった。勝機を目の前にしての焦りが、体の一部に無理な力、こわばりを生んでしまったようだった。

本割がすみ、決定戦のために引き上げ、出直すきょうの二人の「間合い」には、対照的なものが見られた。西の支度部屋から、白鵬は早目に花道へ向い、拍子木の音に従って土俵下に進んだ。その頃、まだ朝青龍が浴衣姿のまま支度部屋で何かをしている様子をテレビカメラが伝えていた。

呼び出しの声で再び土俵に上った両者。塩を取りに房へ戻った白鵬は暫く、そこで蹲踞したまま動かなかった。テレビカメラはその背中しか映し出してはいなかった。瞑目していたのか、瞠目して虚空を睨んでいたのか。何秒の間であったのか、短くない「間」であった。その間、朝青龍は手に塩を握り、すぐに土俵の中へ戻る姿で俵に立ち、白鵬を待った。

蹲踞、何度かの仕切り……。睨み合いながら、互いの視線を見切ったのは白鵬の方だったように見えた。

注文も相撲のうちなり春弥生

勝負を見つめる殆どの人たちが、二人のガップリ四つに組んだ勝負を期待したことは間違いない。それこそが優勝決勝戦に相応しい、と考えるのも無理はない。それが、よもやの注文相撲。勝負が決した一瞬の、それぞれの反応は、そのような事情を映している。

さて、白鵬がいつ、立会いの奇襲を思いついた、あるいはその手に踏み切る決心をしたのか……。 賜杯と優勝旗を手にした後、土俵下でのインタビューで白鵬は、その点を尋ねられ、「とっさのことでした」とだけ答えた。それが、どこまで本当のことであったのか。

閑話休題。今日NHK-BS2で放映した「俳句王国」に次の句

薄氷(うすらい)や 魁皇 強いとき強い(小林英昭)

またもカド番かと思われたきょう千秋楽、安馬に勝ち、ようよう給金を改めた

『恍惚の人』と『楢山節考』2007年03月27日 00:08

「ひとつの昭和精神史――折原脩三の老いる、戦場、天皇と親鸞」という長い副題をもった本に出会った。(伊藤益臣 著 思想の科学社 061208初版)

これは不思議な体裁をとった本だ。 著者の伊藤が、折原の著書を引きながら、話を進めているのだが、どこまでが伊藤が自ら書いている「地」の文であるのか、引用の部分であるのかが分らなくなるようだ。もちろん伊藤は、それぞれの部分で引用を明示しているのだが、印象としては、それにも拘らず、という感じなのだ。

著者の伊藤と折原は、思想の科学研究会の「老いの会」の共同研究で出会っている。共同研究が始まったのが昭和53年(1978年)といい、「顔ぶれは、定年退職をしてから5年経った折原脩三(60歳)、鶴見俊輔(56歳)、佐々木元(52歳、NHK勤務)、丸山睦男(48歳、団体職員)、上野博正(44歳、医師)、しんがりは40歳の天野正子(大学教授)と私の7名」だった、という。

端折って「老い」について、折原を含め研究会の話が辿り着いた所へ、一挙に話を進める。一つは、有吉佐和子の『恍惚の人』であり、いま一つが深沢七郎の『楢山節考』だ。 有吉佐和子の『恍惚の人』の主人公、立花茂造に突然、「恍惚」が訪れる。折原は、こういったと言う。

有吉佐和子の『恍惚の人』の不気味さは、恍惚が不意にやって来たことだ。それ以前の茂造について一切触れずに、いきなり恍惚の人として描いているところにある。だから、これ以上に『恍惚の人』の作意を読むのは、明らかに深読みとなる。この小説から、たとえば現代社会への憤りなどを読むのは、思想の問題になる。だが、思想を持ち出しても、どうにもならないのが老いだろう。思想は選択を許すが、老いは絶対に選択を許さない。歳をとるということは防ぎようがない。何人もこの人世の失墜をまぬがれることはできないのだ。 しかし、重要なことは、茂造は「他者への関心がまったくない」ことであった。ここを見逃してはならない、という。自分がこうなるのは嫌だ、そのような怨念に支えられた『恍惚の人』と、おりんに自分の憧れを投影した『楢山節考』とのちがいは決定的だ。折原脩三は『恍惚の人』とはまったく次元の異なる『楢山節考』を持ち出したのである。

「楢山参り」という昔の姥捨伝説をもとに深沢が書いた小説。伊藤の口調でいえば「山ばかりの信州の名前もない村では、絶対的な食料不足のために、70歳になれば『楢山参りに行く=姥捨山の楢山へ棄てられてそこで死ぬ』という掟になっていた、それを小説にしたもの」である。

「楢山参りに行く」日を心待ちにして準備を整える老婆のおりんに折原は注目し、「恍惚を絶対的に防止し得るもの、それは楢山参り以外にないのではないか」といい、「絶対的食料の不足するこの村では、食うための壮絶な闘いがあるはずで、恍惚の襲う余裕が物理的に存在しない」という。このおりんの「他者への関心」こそが、恍惚に対処できるものと、提言する。

さらに折原は「楢山節考」と姥捨てについて深沢論を展開する。きょうは、この辺りまで。