蟹のつぶやき kanikani

時刻表と時間意識2007年10月05日 17:31

きょう10月5日は「時刻表記念日」なのだそうだ。



1894年(明治27年)のこの日、日本で最初の「月刊時刻表」が刊行されたのだという。庚寅新誌社(こういんしんししゃ・干支の「庚寅」創業にちなむ)が刊行した「汽車汽船旅行案内」で、この時刻表は福澤諭吉がイギリスの時刻表を元にし編纂させ、手塚猛昌が発行した。その後、この10月5日は「時刻表記念日」となっている――なのだそうだ。



確かに、時刻表というのは、松本清張の「点と線」ではないが、駅名と時刻、列車の種別、発駅、行き先などの文字と数字だけが羅列されながらも、そこからドラマを読み取ったり、ロマンをふくらませる、格好の読み物だ。インターネットの経路や最終列車の情報検索といった便利なものが発達・進歩しても、一方でその一覧性といったもので、廃れることはないのだろう。



ヨーロッパへ旅行したときに、ユーレイル・パスと共に買い入れた「トーマスクック ヨーロッパ鉄道時刻表」 は、それだけで彼の地への思いを馳せる一冊の本だった。国際列車の名前をひとつとっても夢のあるものだ。



それにしても、と思う。時刻表というのは、全国の統一的な時刻が確定できないと、実効性のあるダイア表にならない。

新橋―横浜間の鉄道くらいの、いわば南関東のローカルであれば、正午の時間が多少ずれるにしても、大きく違う心配はなさそうだ。しかし、こと仙台あたりから九州方面にでも出かけるとなれば、我々の感覚からしてもお日様の出方、沈み方の時間だって違ってくるわけで、統一的な時刻表示が成り立たなければならなかったに違いない。



そもそも、日本の国内において、いつから「遅刻」といった概念が広まったのか、統一的な標準時間というのが、いつごろから出来上がってきたのか。そんなことを考え始めると、面白い反面、地下鉄をどうやって地下に潜らせたのか敵な、夜も眠れぬ情況が生まれかねない。



そんなことを、学者先生たちも、いろいろな角度から共同研究する、というから面白い。図書館で出会った学者さんの共同研究の本がこれだ。『遅刻の誕生―近代日本における時間意識の形成 』。 遅刻の誕生―近代日本における時間意識の形成



ウィキペディアによると、日本の標準時間の制定は次のようです―― 日本標準時は、1886年7月12日勅令第51号「本初子午線經度計算方及標準時ノ件」により、1887年1月1日から東経135度の時刻を日本の標準時(「本邦一般ノ標準時」)とすることが定められたものである。同勅令では、グリニッジ天文台子午儀の中心を通る子午線を本初子午線(経度0度)とし、東西それぞれ180度で、東を正、西を負として表すことも定められている。



その後、1895年12月28日勅令167号により、1896年1月1日から東経120度(GMT+8:00)の時刻を「西部標準時」として八重山列島・宮古列島と日本統治下の台湾・澎湖列島で使用し、東経135度の標準時は「中央標準時」と改称された。西部標準時と中央標準時との時差は1時間だった。


1937年9月24日勅令529号(10月1日施行)により、西部標準時に関する条項のみが廃止された。よって、法的には現在でも「中央標準時」という名称が正しい。



いずれにせよ、標準時間が定まって、日本の「国民」が出来上がっていく時代の「時間意識」がどのように作られていくか、が読みどころ。

蛇足だが、交通機関は事前に周知している時刻表より早く、その駅を通過してはいけない、ということの周知に、明治のおそい時代まで、随分と時間がかかったようです。いまだにバスでは、停留所に書かれた時刻表はあてにされていませんが、日本の列車は世界に冠する正確さを誇っている。それも100年このかたの歴史の所産だったようです。