蟹のつぶやき kanikani

「ヤミ」を拒否した判事2007年10月11日 17:48

「ヤミ」を拒否した判事が、栄養失調で死んだ。
60年前、昭和22年(1947)の10月11日のことだ。
東京地裁第13部の山口良忠判事。47歳だった。


「今日は何の日」で、11日が命日であることが分かり、
古い新聞を繰ってみた。しかし、一向にそんな記事が見つからない。
やっと見つかったのが朝日新聞(東京)で11月5日付の2面だ。
とはいっても、当時は朝刊が表と裏の1枚、2ページの時代で、
その2面のトップ記事になっている。


「判事がヤミを拒み 栄養失調で死亡 遺した日誌で明るみへ」
という3本見出しの堂々とした記事だ。
その前文は、こんな具合だ――。


”安い給料では食えぬ”と判検事がぞくぞく弁護士に転職してゆく折柄、いまこそ判検事は法の威信に徹しなければならぬとギリギリの薄給から、一切のヤミを拒否して配給生活もまもりつづけ、極度の栄養失調がモトで、ついに肺浸潤でたおれた青年判事の話が、このほど葬儀に参列した同僚と、その日記からはじめて明らかにされ凄烈なその死をいたまれている。


戦災で焦土と化した町も村も、海外から引き揚げてきた人々や兵士であふれ、一方では工場も焼かれ、モノはなく、食べるモノさえ乏しく、あればヤミのマーケットで、その値段は日々、異常なほどの率とスピードで高くなっていくハイパー・インフレの時代。人々は、持っていた品物・着物まで次々に売り払い、モノに替えていく「タケノコ」生活の時代、というのは、現在のモノが溢れ、「飽食の時代」からは考えられないほどの時代だった。

この山口判事、ともかく頑なにヤミを拒否した。「ヤミをしながら、ヤミをした人間を裁くことができるか」ということであったのだろう。7歳と3歳の2児がいた。薄給だけで、配給されたものだけで、暮らしていくことを妻にも命じ、買えたものは子供たちに、自分たちは汁気だけでの生活を続けたようだ。見かねた奥さんの親や友人が、モノを持って行ったり、食事に招こうとしても、一切応じなかったようだ。挙句、栄養失調で微熱がでるようになり、8月に職場で倒れた。休職の手続きをとって郷里の佐賀に戻ったものの、病床でもヤミを拒み続けたのだという。


そして紙面には「死の床につづられた日記の一部」というのも掲載されている。


――食糧統制法は悪法だ。しかし法律としてある以上、国民は絶対にこれに服従せねばならない。自分はどれほど苦しくともヤミ買出しなんかは絶対にやらない。したがってこれをおかすものは断固として処断せねばならない。自分は平常ソクラテスが悪法だとは知りつつも、その法律のためにいさぎよく刑に服した精神に敬服している。今日法治国の国民はとくにこの精神が必要だ。自分はソクラテスならねど食糧統制法の下、喜んで戦死するつもりだ。敢然ヤミと闘って戦死するのだ。自分の日々の生活は全く死の行進であった。判検事の中にもひそかにヤミ買して何知らぬ顔で役所に出ているのに、自分だけは今かくして清い死の行進を続けていることを思うと全く病苦を忘れていい気持だ。


今では、このような青臭い、あるいは生硬な議論自体を聞くことも稀だが、モノのない時代ゆえのピュアな精神であったのか、あるいは、この青年判事の終戦をはさんでの半生の中で、頑なにならざるをえない「何ものか」があったのであろうか、とも思う。


新聞紙面では、さすがである。翌6日の2面トップで「判事の餓死をどう見る」と、各界の「見方」を展開している。


片山首相の妻菊枝さんは「……国民にヤミ撲滅を唱え、取締りをされている官憲の方々はやはり立場としては、立派な方でした山口判事のような考え方をなさるのも当然ともいえますが、ただ家庭を守る女性としては、多少ゆとりを持って夫や子供の生命を守るべきだと考えます。畑の仕事を女の手で出来るだけやることなどでも大きな効果があります。奥さんにもう少し何かの工夫がなかったものでしょうか……」と語り、参議院議員の松谷天光光さんは「消極的だ、もっとインフレの波、ヤミの流れに身を任せる間に、なぜ地域、職場の人々と手をとりあって、生活防衛の手段を講じなかったのか」。経済安定本部の和田長官談は「返事しにくいよ」などなど……。


いずれにせよ、60年という時間の経過の中で、そんな判事の生き様、死に様は遠い忘却の世界にあることも間違いなさそうだ。