蟹のつぶやき kanikani

「呼びや屋」一代2007年10月15日 04:36

「呼び屋」という言葉で、何を思い出すか、といわれて、
具体的なイメージを持つ人は少ないだろう。
興行をする際には必要な、「プロモーター」という呼び名が、
「呼び屋」に匹敵するのかもしれないが、
「呼び屋」という言葉には、
もう少し「ミズモノ」である興行と共にある、
一種言い知れぬおどろおどろしい情念が感じられる。
『虚業成れり――「呼び屋」神彰の生涯』という本で、
大島幹雄が書いている神彰、という人生は、
「呼び屋」に相応しいのかもしれない。
大島自身、直接は神と仕事をしていないが、
”孫弟子”のような関係から、神に興味をもったことが、
この本になっている。
初め、デラシネ通信というウエッブ上の通信にアップした。
その中で「神彰とは何者か」という章がある。

――えっ、神彰って誰っていう人が多いかもしれません。
戦後まもない頃、最初にドン・コサック合唱団を呼び、
日本中に大旋風を起こした男、
そして全く交流がなかったソ連の厚い鉄のカーテンをこじ開け、
ボリショイ・バレエ、ボリショイ・サーカス、
レニングラードフィルなどを次々に呼ぶことに成功し、
大宅壮一から『赤い呼び屋』と称された昭和の風雲児です。
要領よくまとまった、「これが神彰」という説明だ。
さらに――。
このあとも、素人集団アートフレンドを率い、
シャガール展、ピカソ展、アート・ブレイキー、チェコフィルなど、
常に話題をもった公演を成功させた神彰は、
当時新進気鋭の女流作家として注目を浴びていた有吉佐和子と結婚、
巷をおおいにわかせます。
 しかしアートフレンドの内紛、大西部サーカスの大失敗、
有吉との離婚などが重なり、会社も倒産、膨大な借金を抱えたまま、
かつての栄光の座から、転落してしまいます。
再び呼び屋として、富士サーキット500マイルレースや、
カシアス・クレイの招聘など世間を騒がせますが、
興業は相次いで失敗、興業師として再び蘇ることはありませんでした。
神彰が再び世間の前に姿を現し、脚光を浴びるのは、
居酒屋チェーン『北の家族』のオープンし、これが大成功を収めてからです。

 神彰は、一九九八年五月に鎌倉で76才の生涯を閉じています。
朝日新聞が1998年7月1日夕刊の「惜別」というコーナーで、
次のように伝えている。
 喪主は長女で作家の有吉玉青さん(三四)。
二年で離婚した作家、故有吉佐和子さんとの間の一粒種だ。
嫌いで別れたわけではない。
有吉さんの作家活動に支障がないようにという、強引な配慮だった。
八年前、二十五年ぶりに父娘は再会した。
 玉青さんは告別式で、こうあいさつした。
「初めはジンさんと呼んでいましたが、『おやじ』になりました。
彼が父親だからではありません。『おやじ』を好きになったからです」
 かつて時代の寵児ともてはやされ、怪物とまでいわれた男は、
がんと闘った晩年、まな娘にありったけの思いを寄せる
普通の父親になっていた。
一つ、この本で知ったこと。神と有吉の出会い。
神が最初にドン・コサック合唱団を呼ぶことになった頃。
思わぬ合唱団側の提案へのOKに、契約書を作らなければならないが、
その方法が分からない。
そこで友人のひとりで、第一物産(後の三井物産)に勤めていた
有吉善に相談する。彼も興行関係のことは分からない、と
妹で日本舞踊の秘書役をしていた佐和子を紹介される。
これが出会いだ。
大島は、それ以上のことは書いていないが、
この吾妻徳穂は吾妻流家元・宗家。
1954年から1956年まで、「アヅマカブキ」を創設して欧米を巡演している。
5代目、中村富十郎の母である。
私自身も、多少の関わりがあって、
この神彰の名前と風貌を記憶している。
それは彼が、いったん栄光の座から、転落し、
再び呼び屋として、富士サーキットのインディ500マイルレースの
興行を打ったときだ。
正確にその経緯は忘れたが、
このレース場の整理のためのアルバイトに駆り出され、
富士まで出かけたのだと思う。
学生仲間が面白そうだ、ということからの単純なバイトのつもりだった。
ところがレースの前日は大変な雨。
バイトの支払いの条件をめぐって、
バイト連中の不信に神が答えなかった挙句、
バイトで出かけたわれわれの仲間が一斉に引き上げた――
というのが曖昧な記憶だ。
しかし、小太りで向かい合った我々に傲岸な姿を見せていた
彼の像の記憶だけは妙に鮮明だ。
因みに、「虚業成れり」という言葉は、
スエズ運河の掘削を企画したレセップスが、
オランダのイザベラ女王から自身のエメラルドの首飾りを差し出され
「人類のための事業は、あなたから始まるであろう」と
声をかけられたときに、思わず言った
「わが虚業、いま成る」と叫んだという
――ということに由来するのだそうだ。