蟹のつぶやき kanikani

「蝉噪忌」2007年10月07日 07:57

「七花八裂」
ついこの間まで喧騒を極めていた蝉たちの声がパタっと止んだ。かわりに、地にすだく虫の声が満ちている。


「杉村楚人冠」という人がいた。
朝日新聞に明治36年(1903)12月から昭和20年(1945)10月3日までの42年間在籍したスター記者であった。


哲堂・松山忠次郎の誘いで朝日へ入社するが、当時の主筆・三山池辺吉太郎も杉村を村山龍平、上野精一の両社主に推薦の文を書いている。
「米国公使館通訳たる杉村広太郎君に面会、いろいろ相談致事有之、且その文意等も一見いたし候処余程運筆たしかに有之……」


「楚人冠」というペンネームの由来は、記者になる以前、米国公使館に勤務していたときに「楚人は沐猴にして冠するのみ」=「粗野な人がうわべだけ飾る」という史記の記述からとった、といわれる。
入社して明治40年には明治天皇のガーター受章勲章の答礼使として伏見宮がロンドンに派遣される際に、その報道と英国の新聞「タイムス」との関係を深めるために特派された。その時のロンドン往復の紀行文が連載され、好評を博した。帰国後、「大英游記」として出世作となった。


企画者としても非凡で、トーマス・クック社との特約による朝日新聞社主催の世界一周旅行会(明治41年)、白瀬中尉の南極探検の後援(明治43年)、日本初の新聞縮刷版の発刊(大正8年)、「アサヒグラフ」の創刊(大正12年)などの発案・実行に名を残している。また新聞理論に新しい視点を持ち込み「最近新聞紙学」などの著書がある。


そんな楚人冠の、朝日新聞に入社するまでのことを書いた本を読んだ。
「七花八裂 明治の青年 杉村広太郎伝」。小林康達著。現代書館。


杉村広太郎は、明治5年旧暦7月25日、和歌山の生まれ。和歌山中学校であの南方熊楠と先輩・後輩としての交流があったり、友人が仏教にのめり込んで活動をするなど、現代から考えると破天荒であったり、そんな伝説上の人たちとの交流があったことが信じられないようなエピソードに彩られている。


書名の「七花八裂」は「大英游記」の出版と同じ時期に杉村が、「縦横」の号で出版したもう一冊の本。「七花八裂」は、禅宗用語で「一つの者が裂けて七にも八にもなること。微塵に粉砕するという」という。


楚人冠の亡くなった十月三日を記念する楚人冠忌は「蝉噪忌」というのだそうだ。楚人冠の遺句「蝉噪々 地に十二年 樹に三日」によるという。

杉山茂丸伝《アジア連邦の夢》2007年10月07日 14:32

「杉山茂丸」といって、知っている人は殆どいないだろう。
福岡日々新聞の記者出身の作家、夢野久作の父、といっても、まだ好事家の範疇だろう。

しかし、明治・大正・昭和の正史の裏で、この名前「杉山茂丸」が浮かんでは、消える。
九州は福岡の産である。黒田藩馬廻組百三十石の侍の家に生まれたのだそうだ。
以後、この人、若い頃に小学校の代用教員をしていた一時期を除き、天下の浪人、何の職に就くわけでない浪人を通したアウトサイダーであったらしい。





そんな杉山茂丸の伝記「杉山茂丸伝《アジア連邦の夢》」に出会った。


堀雅昭という人が、この伝記の著者になるまでの「著者略歴」が楽しい。奥付から――


「1962年山口県宇部市生まれ。山口大学理学部卒業後、製薬会社研究員、中学校臨時教師を経て文筆家となる。『毎日新聞』(山口県版)で、山口県のハワイ移民史を調査した「太平洋を渡った海人たち」を2003年1月から2年以上に渡って連載。著書に『戦争歌(いくさうた)が映す近代』(葦書房)などがある。宇部市在住」



「はじめに」として著者は、「『其日庵』(そのひあん、又はきじつあん)と号した杉山の号の由来が、何の職にも就かぬアウトサイダーであったことを書いた後、こんな風に、恐らく筆者との出会いを臭わす。



「長州閥の政治家たちの裏側には必ず彼がいた。日韓併合を断行した寺内正毅、昭和に首相になった田中義一、国際連盟を脱退して満鉄総裁になった松岡洋右。長州閥は陸軍閥なので、乱暴にいえば陸軍の背後で暗躍した人物といえなくもない。一方で福岡の国家主義団体「玄洋社」を率いた頭山満とも昵懇で、ある時期からは玄洋社の金庫番として頭山の指南役にもなった。そして自由に朝鮮や台湾に遊び、アメリカにまで雄飛して世界一の金融王J・Pモルガンと外資導入案をまとめたりもした。そんなとらえどころのない輪郭により、いつしか「ほら丸」だの「策士」と揶揄されるようになる。茂丸の面妖さがいか程であったかは、鵜崎鷺城が『当世策士伝』(大正3年)で語る次の一文でも察しがつくはずだ。『政治家にあらずして政界に関係を有し、実業家にあらずして財界に出没し、浪人の如くして浪人にあらず。堂々たる邸宅に住まい、美服を身にし、自動車を駆って揚揚顕官紳士の邸に出入りし、常に社会の秘密裏に飛躍しつつある杉山茂丸は、当代の怪物一種の策士として興味ある人物である』



杉山本人が精力的な人物であったらしく、自身について20冊あまりの著書がある上、息子の夢野久作の『近世快人伝』など、書かれたものが多数あるのが幸か不幸か、筆者に手がかりを与えたわけだ。自伝を含め、そこに書かれたことの真否、真贋を確かめることは、決して楽ではない。



それにしても伊藤博文との出会いが明治18年2月、伊藤が総理として朝鮮で起きた甲申事変の処理で李鴻章と交渉するために天津に旅立つ矢先、その命を付狙う形でであった、という。が、果たせず、逆に「若いときには自分も……」といった風に、伊藤にたしなめられ、共に国を良くする事に邁進しようといわれ、いわば私淑する。



大阪では藤田組を起こした藤田伝三郎の知己を得、明治18年頃、北海道に遊んでいるときには金子堅太郎と知り合う契機になったり、また「暢気倶楽部」というインフォーマルな倶楽部を立ち上げて義太夫会を催して、右翼、後藤新平など政治家、官僚を集めるなど、確かに多彩な活動をしていたのは間違いないようだ。



年表風に少し、その業績を記しておこう。



明治13年9月、初上京。赤坂で旧藩主黒田長溥に面会。17歳。翌4年、山岡鉄州の家で暮らす。大阪で後藤象二郎、藤田伝三郎と出会う。 明治17年、21歳で再上京。金子堅太郎の家に出入り。伊藤博文の暗殺を企てるが不在。朝鮮で甲申事件。18年、再び伊藤博文を襲うが逆に諭される。 明治21年、25歳。ホトリと結婚。大阪毎日新聞創刊。22年、長男の杉山直樹(夢野久作)誕生。大日本帝国憲法発布。12月、九州鉄道(博多―千歳川)開通。23年、第1回衆議院選挙。上海に荒尾精が日清貿易研究所を開設、2000円を提供。 明治25年、第2次伊藤内閣。日清戦争に伊藤が消極的なところから陸奥宗光に開戦を説く。26年、山県有朋から資金を受け同士を朝鮮に送る(天佑侠) 27年、金玉均が上海で暗殺される。東学党の乱。日清戦争。


明治30年、藤田伝三郎の3000円でアメリカへ。31年、再渡米。NYで星一とあう。九州倶楽部で銀行設立の必要を講話 31年、桂太郎、児玉源太郎らと秘密結社、日露戦争の準備。33年、義和団の乱、。 34年、伊藤の親露的なのを知り、山県に乗換える。内田良平が黒龍会結成。2度にわたり渡米。 37年、日露戦争。翌38年、第一次ロシア革命(血のメーデー)。明石元二郎を通じて革命を援助。5月、京釜鉄道開通。夏、孫文が赤坂の内田良平邸で中国(革命)同盟会を結成。 44年、南北朝正閏問題。 大正7年、55歳。「児玉大将伝」。9月、黒龍会が朝日新聞社の村山社長を襲う。 8年、「桂大将伝」。10年、「明石大将伝」。14年、「山県元帥」を刊行。




昭和10年、72歳。5月、「頭山、杉山両翁金菊祝賀会」。第二維新に向け真崎甚三郎らに結束を促す。7月、危篤に陥り、19日三年町の自宅で死去。東京帝大医学部で解剖、デスマスクが作成される。頭山の命名で「隠忠大観居士」の戒名。芝増上寺で葬儀。 下村海南が追悼記事を連載




茂丸の訃報記事(福岡日日新聞 昭和10年7月20日付)――


着眼の大きい 大策士  不思議に埋立事業が好き



其日庵主杉山茂丸翁が逝いた、翁七十二年の生涯は策士黒幕としての一生であったがその策は決して近頃の策士に見るようなこそこそしたものではなく着眼点の大きい大策士であった