蟹のつぶやき kanikani

昭和天皇はニセモノ?熊沢天皇ということ2008年05月11日 12:11

何で今頃、熊沢天皇なのか、とも思う。
というより、「熊沢天皇」という事自体を知らぬ人が
多くなっているかもしれない。

戦後の混乱期、南朝の末裔を自称し、
「北朝方の現天皇はニセモノだ!」と訴えて、
時代の寵児になった熊沢寛道という人物が、その天皇だ。

明治22年12月18日に愛知県一宮市で生まれている。
尾張時之島という土地柄。ここに南朝の末裔がいるのだが、
その中で直系を唱え、北朝のアキヒトはニセモノだと
戦争中から訴え、自身が正統な天皇であることの確認を求め続けた
伯父の熊沢大然の養子となる。
終戦後、「時は来たれり」とマッカーサー元帥宛の請願書として
GHQに出した文書が、「ライフ」や「ヘラルド・トリビューン」の記者らの目に止まった所から、騒動が始まる。

とはいえ、その主張は、戦前の「南朝・北朝」の
いずれが正統であるか、という論争の時代から、
「国体」と称するものの本体である「万世一系」という「血」を巡って
議論の対象にはなってきていた。

この本の面白いのは、熊沢という一人の人間だけでなく、
その一人を取り巻く人びとの思惑などが読めてくること。
また戦前の特高などが遠巻きに監視を続けていたさまも
異常であるだけに面白い。

結局、何度かの浮き沈みを経つつ、
「天皇」は昭和41年6月11日、妙光尼という神憑りの人にだけ
付き添われ、78歳で崩御。

天皇制の陰画といえるのかもしれない。

筆者の藤巻一保氏は、1952年、北海道生まれ。
作家・宗教研究家。「宗教における神秘主義をテーマに、
歴史のタブーにも光をあて、旺盛な執筆活動をおこなう」と
著者紹介にある。
「安倍晴明」「役小角読本」「魔王と呼ばれた男 北一輝」などの著書。

隠された大逆事件2008年05月11日 23:18

中濱鐵隠された大逆罪
―ギロチン社事件未公開公判陳述・獄中詩篇

「トスキナア」の別冊。「トスキナア」というのは、ほかではない「アナキスト」の逆立ち言葉だ。

中浜鉄という詩人がいた。本名は誓う。哲という名も使った。
1897年1月、福岡県企救郡東郷村(現北九州市門司区)生まれ。生家は漁村で郵便局を営んでいた。

20年末に加藤一夫を中心として設立された「自由人連盟」に参加。機関紙『自由人』には「宣伝部」として富岡誓の名が記される。22年、ギロチン社を古田大次郎らと立ち上げ活動、爆弾入手の資金調達の過程で逮捕され26年4月15日、処刑されている。

アナキストで関東大震災の直後に惨殺された大杉栄を詠った
「杉よ!眼の男よ!」は有名だ。
しかし、この中浜らのギロチン社の事件の全貌は、
当時の緘口令の中で新聞報道自体少なく、
1審では無期判決だったものが、大阪控訴審で1審判決を破棄、
死刑判決を受け、上告をせずに刑死したことは分かっているが、
その裁判の内容も知られていなかった。

その公判の手掛かりが、
どうやら情報公開の請求で、一部であっても明らかになった。
その史料公開だ。その結果、中浜が控訴審で初めて
弁論を行っている内容が判明した。
その内容が事実であるとすれば、これまで明治以来4件しかないと
されてきた「大逆事件」にもう1ページが付加えられることになる。
それだけにこれまで厳重に秘匿されてきたのであろう。

「情報公開」という手続きによって歴史的な事実が、秘匿のベールを脱いでいくことになるかもしれない。

かものはし2008年05月22日 01:22

「かものはしプロジェクト」というNPOの共同代表である、村田早那香さんの話を聞いた。

カンボジアで買春をさせられている児童たちを救う――というのがNPOのミッション。村田代表という、26歳のお嬢さんが、大学生であった02年に児童たちの酷い状況を現地に見て、「私たちに何かできないか」と、思い立ったところから、この挑戦が始まった、という。

村田さんが出会ったのは、6歳と12歳の姉妹。彼らは家が貧しかったために、売春宿に売り飛ばされ、電気ショックを与えられながら無理やり働かされていたところを保護された。売春宿に売られた後、HIVで死亡したり、自殺をしたりする子どもも少なくないと知った。

カンボジアはインドシナ半島にあり、ベトナム、タイ、ラオスに接している東南アジアの国だ。世界遺産アンコール遺跡群という観光資源こそあるものの、どうも国の体をなしていないかのようだ。ベトナム戦争の裏側で共産主義政党クメール・ルージュの独裁者ポル・ポトが政権を握った時代に、国内で当時の人口のおよそ三分の一にあたる200万人とも言われる途方もない規模の大虐殺が行われ(数については諸説あり)、中でも働き盛り、社会の中心となるべきインテリ層が虐殺の対象となる、不幸な時代をくぐってきた。村田さんの話を聞いて、貧困の背景は深そうだ。

そのカンボジアの子どものために、村田さんが思い立ったものの、単なるボランティアでは、挑戦は長続きしない、それに自身がそれに賭けていくにしても自立ができない。そんな時に出会ったのが、共同代表の2人の若者。東京大学の学生だった。

児童を買春から守るために推進する事業を「親に仕事を、子どもに教育を!」と思い定め、起業する方策を探る。村田さんは当初、ボランティアで始めたが、就職活動の時期を迎え、これを事業として進めることを決心するが、親に反対され、妥協が「3年間で結果を出す」ことだったという。

仲間と学生起業家のコンクールにアイディアを出し、競ったりもした。村にコミュニティーファクトリーを作り、村人に職業訓練と雇用を提供することで、子どもたちは学校に通え、児童買春の被害にあうことをなくす、と現在ではイグサで作ったブックカバーをファクトリーの仕事にしている。一方で、国内でITの仕事を受注して、NPOのメンバーの人件費を賄ったり、その他は法人や個人のサポーターの資金援助、というのが収入の柱だ。またサポーターに現地を案内するスタディーツアーなども行っている。

村田さんは04年フェイリス女学院大学国際交流学部卒業。01年第2回子どもの商業的性的搾取に反対する世界会議若者代表。03年Youth Development and Peace(世界銀行主催)に、唯一の日本の若者代表として参加などの経歴。「★ 世界で最も傑出した若者に選出!★
 ~過去にケネディやキッシンジャーが受賞したTOYP賞を受賞しました!~」とも。

「一日あたり33円の支援で子どもたちの笑顔が守られます」。会は呼びかけている。弾けるようなエネルギーに打たれた。

馬は食えずに熊を食った2008年05月28日 16:20

かつての同僚F君と旅に出た。先週金曜日のこと。
いつ廃線になってもおかしくないローカル線から庄内を廻る3泊4日の旅だった。
F君のアレンジでまず、米坂線から。山形県の米沢と新潟県の坂町を結ぶ線で、1日に6本程度の列車しかない。

米沢で山形新幹線を降り、いよいよ米坂線に。ホームは「0番線」で、これまで米沢から乗ってきた軌道の隣というか、先というか、駅舎からいえば200~300mも引っ込んだところにある。これでまずビックリ。2両編成のワンマンカー。前の車両は冷房が効くが、後ろは効かないとのアナウンス。効かすことができないのか、それとも効かさないのか。

事前の調査で、F君が気になったのが、途中駅の今泉駅から歩いて3分の「馬肉ラーメン」の店。インターネットで見つけた。
このラーメンのために腹にスペースを空けながらやってきたので、時間は3時半に近い。インターネットの画面には営業時間は11時~16時、17時~20時、定休日は水曜日、とある。しかし……。急に不安になったF君、携帯で件のラーメン店にやっているかの確認の電話を入れた。「いつも4時までやってんだけど、きょうは都合で、いま閉めた」。約束と違う。「馬肉ラーメン食べるために、ここまでやって来たのに」。請願は受け入れられなかった。

といって、ローカル線のこの列車、今泉というこの駅まででストップ。きょうの目的地の「小国」まで辿り着かない。次の列車までは1時間余り。せめてその店構えだけでも、と駅から歩き始めた。が、何をナニオ、「駅から3分」のラーメンの店は、行けども行けども見当たらない。やっと辿り着いたのは10分近くかかったように思えたのは初めての道だったからか、田舎の人の足は速いのか……

確かに店はあった。「本日休業」の看板と暖簾が、店の中に見えた。昭和5年ごろに、この地に草競馬場があったこと、田畑の耕作に牛より馬が利用されていたことなどが、馬肉ラーメンの発祥に大きな背景をなしているらしきことだけは分かった。
http://www.e-dcs.jp/kameya/mind.html

せっかく、期待していた馬肉(本当は、それほどでもない、話のタネ程度ではあるが)に振られ、次の列車で小国へ。駅から、町営のバスで行けばよいのだが、接続が悪すぎ、タクシーで飯豊山めざして行く。

途中で高度が上がってくるに従って、タクシーの車内に冷気が満ちてくる。見ると正面の山の腹には雪渓が残っている。こりゃあ、まだまだ寒い所へやってきた。
雪渓の山を正面に、足元に渓流を見ながら、露天風呂に入り、晩飯。

山菜、アマゴ、牛のすき焼き風、といろいろ皿に鉢が並んだ。ダメ押しが「熊肉のスープ」だった。F君、旅館の注文の際に、何か「特別料理」風のものを付け加えて申し込みをしたらしいが、それがよもや「熊」とは思い及ばなかったらしい。

そもそもこの飯豊山麓はマタギの里でもあった。熊は親しい狩猟の対象ではある。
さて、そのお味。ぶつ切り風の肉の食感は、歯ごたえあり、硬すぎはせず、脂の乗り方もほどほど。ただし、何度も食べたいかといえば、それほどではないかもしれない。ただ、これは確かに話のタネには十分であった。