蟹のつぶやき kanikani

「夢であいましょう」2008年06月10日 23:54

BS2の「お宝TVデラックス」(6月7日)で、「夢であいましょう」を見た。「バラエティー番組の原点」と銘打っての番組構成。
とはいっても、この番組、「週刊お宝TV」時代の06年4月に、シリーズの初回として登場している。

『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、「夢であいましょう(ゆめ-)」は日本放送協会(NHK)のバラエティ番組。昭和36年(1961年)4月8日から昭和41年(1966年)4月2日にかけ、毎週火曜日(のち土曜日)夜10時台に生放送された――とある。

「ゆめあい」の売り物の第一は、司会の中嶋弘子と、彼女の上半身を右に傾けてオープニングの挨拶。素人の中嶋の起用が、構成の永六輔と演出の末盛憲彦のコンビで、昭和34年(1959年)放送開始の『午後のおしゃべり』(NHK)で試行されていたというのは、初めて知った。

「ゆめあい」が「バラエティ番組の原点」というが、当時、それに先行して草笛光子を看板にした『光子の窓』(NTV)があり、またクレージー・キャッツとピーナッツの『シャボン玉ホリデー』(NTV)も同時代。

テレビが若い時代、現在と何が違うのか、と思わされる。
「何もない」時代であったから、お手本をアメリカの番組に求め、それに日本「的」なものを盛り込もうとした構成作家や演出家がいて、挑戦が認められる自由度があった、ということかもしれない。
永六輔だけでなく、この日の番組にも出演していた田辺靖雄も、60年の安保デモに参加していた、時代でもあった。

さらに、いまでは番組作りの上で、収録こそが主流というか、それなくしては番組が成り立たないと思われるほどだが、収録ができなかった時代には「やり直しがきかない」という緊張感と、番組を生でつないでいくための工夫が凝らされている。一定の広さしかありえないスタジオの中で、どのように舞台転換をしていくか、これは苦労であるだけに、醍醐味であったのかもしれない。確かにエンディングの挨拶部分では、後ろで装置を慌しく移動、片付けているノイズが歴々としていたことが、記憶にある。

それにしても、永六輔の作詞、中村八大の作曲で次々に生み出されていった歌の数々も、懐かしさだけでない、今なお新しさを感じさせる作品であるだけに、貴重な番組であったと思う。坂本九の「上を向いて歩こう」は、私にとっては高校1年生の時であったし、「遠くへ行きたい」(歌:ジェリー藤尾、1962年) 「おさななじみ」(デューク・エイセス、1963年6月) 「こんにちは赤ちゃ等など、青春の歌であった。

因みに、現在、残っている「ゆめあい」の番組収録は13本だそうだが、これも残すための収録というよりは、出演者の反省会用であったらしい。