蟹のつぶやき kanikani

「誇り高く優雅な国、日本―垣間見た明治日本の精神」2008年06月02日 12:45

著者のエンリケ・ゴメス カリージョは1873年、中米グアテマラ生まれ。90年にスペイン語圏に不滅の足跡を残すニカラグアの詩人、ルベン・ダリーオに出会い、非凡な才能を見出され、政府の公費でマドリードに派遣され、パリを含めて行き来するうちにスペイン文学界に登場。新聞社の依頼を受けギリシア、エジプトからロシア、中国などに足を伸ばし旅行記を書いた。日本への旅行も、その一つ。1905年に来日したらしいが、詳細は分からない。滞在の期間も不明だが、事前にかなりの勉強をしてきていることが窺われる。来日の最大の目的は日露戦争に勝った東洋の国・日本を知ることにあったと考えられる。 東京の印象として書いている一節。「日本人は歩道をつくることや街灯をつけることなど思いつきもしないのに、電信・電話線という新しいものをもちこんで、町をさらに醜悪なものにしてしまった。この無数に張り巡らされた網の目といったらどうだ。こんな蜘蛛の巣をいったい誰が想像できるだろう。どんなにみすぼらしい横丁にも何百本という電線が張り巡らされ、それを支える沢山の電柱が立っている」。明治文明と出会った西欧人の印象記の中でもちょっと趣の違う、しかし鋭い視点からの指摘のように思われる。 もちろん吉原の花魁からハラキリ、武士道、名誉の規範などという章立てもあり、東洋の美学についての紹介と批評があるが、概ねは好意的な感じだ。 一方「貧困」という章立てもある。「東京の貧民窟」としてこう書き出している。「困窮とか貧困だとかが、かなり頻々に話題にされている。田舎から帰ってきた人びとはよく飢饉の話をする。収穫がほとんどなく、狂乱した農民がほんのわずかの米を求めて町に押し寄せているという。外国人たちはメトロポールホテルや帝国ホテルのホールでこのような悲しむべきニュースを読んではこういう。『東京には貧しさなどまったくみられないな』。  たしかに、日比谷公園や上野公園、あるいは大・公使館のある区域や銀座通りでは貧困は見られない。日本人は伝統的なギンジから、自分の悲しみを隠す術と貧しくとも気位を高く保つことを知っているからだ。施しを乞う人びともけっして外国人の方へは行かない。昔のスペインの貧乏郷士が、空腹にもかかわらず自分は食事をしてきたのだと人に思わせるため、家を出るまえにパン屑を口髭に付けたと言う話があるが、それはここでは現実のものである。極貧の人々でさえ、貧しさを悟られまいとする。それdも中心街を離れて、東京の本当の内奥に分け入れば、その微笑が実は多くの悲痛な嘆きを押し隠していることにすぐ気がつく。芝の町外れ、新網町と長者町(東京深川あたり)と鮫が橋(東京新宿の四谷二丁目あたり)の各通りが出会うあたり、あえてこれらの迷路に踏み込む者がいれば、無残な光景が目に焼き付けられるだろう。実際、穴倉のような家々の奥には、裸で腹をすかせた人々が折り重なってうごめいている。日本の一般基準では、人間一人につき2×0.75mの広さが必要であるというが、ここにはそんな広さもない。私は鉄道の車両1両分の広さの中庭に百人もの人がくらしているのを見た」という目は、ジャーナリストの目だ。そして鴨長明の描いた京都の飢餓の話、滝沢馬琴の18世紀の江戸の米騒動の話にまで目を配っている。その意味で、当時の日本のジャーナリズムを超えた貧困への眼差しが感じられる。 この旅行記は、スペイン語で書かれていたことで、読者の数は想像する以上に多かったともいわれる。

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